なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

某拘置所に行ってきたから感想を書いておく

なるがです。

この夏、僕は某拘置所にぶち込まれました。

 

嘘です。

拘置所で提供している食事を片付ける「洗い場」にバイトで入ってきたのです。

なんでそうなったかは置いとくとして、

洗い場ではどんな仕事をするのだろう?そして、収容されている人はどんな食事をしているのだろう?どんな一日が送られているのだろう?そこで働く人たちの一日はどんなだろう?という事を書いてみます。

あまり内部情報を詳しく書くとモサドから警告が来るかもしれないので適当に書くとします。

 

その某拘置所の収容者数は約700名との事。一時期1000名を超えていたというから驚きです。

すなわち、悪い人がめちゃくちゃ多いという事ですね。

建物も当然警備が固く、ぐるりとフェンスでとり囲まれています。施設内へは暗証番号を入力して中に入ります。暗証番号は、※※※※※※※です。

収容者の居る建物の窓はすりガラスになっており、外から中を伺う事は出来ません。収容者も然り。外の景色を眺める事は出来ません。

しかし本当に700人近くいるのかと思うくらい人の気配が感じられません。異様な雰囲気です。

 

彼らは未決囚と言って、刑が確定していない人たちです。逃げたり証拠隠滅しないように拘束するための施設なので、刑務所とは違います。

極端に言えば、現状ではまだ「普通の人」な状態な訳です。

とはいえ、ここに来ること自体がもうすでに普通ではないんですけど。

犯罪をして捕まったら、留置場〜拘置所〜刑務所という流れになります。

そしてなんと、死刑囚がここ拘置所に収容されているのです。刑が執行されていないから、という理由だそうですが、なんか違和感ありありです。そして死刑場もあり、この建物内で執行される事になります。うーむ、何かここだけ世界が違いすぎます。

 

いざ厨房へ

施設の方に案内され、その方の静脈認証にてロック解除していただき、さらに内部へと入ります。

厨房施設はとても広く、大きな釜やオーブン、調理機器がずらりと揃っています。ちょうど大釜で調理しているところでした。オールのような大きなしゃもじでグリグリと混ぜております。一方では盛り付けが行われており、流れ作業でじゃんじゃんと手際よく大量の数を捌いておられます。

 

食事の提供は弁当箱によるもので、この日は麦飯とおかずが盛られていました。日によってはパンの日もあり、な、なんと生地を発酵させ、オーブンで焼くという事もやっているそうです。焼きたてパン!信じられない…。しかしこれは外注で仕入れるよりも安いそうで、手間はかかるが原価を抑えるためにやっているとの事でした。

メニューも毎日日替わりで朝昼晩3食きっちり、専属の管理栄養士がカロリー計算したものです。僕の毎日の食事より健康的ではないか!そしてこの日はアイスクリームまでついてる!なぬ⁈

もっと質素で粗末なものが出ていると思ったら大間違い、毎日違うものが食べれるなんて恵まれすぎなんじゃないの?くどいが僕の食事よりかなり健康的である。

 

拘置所飯とは

しばらくして僕は洗い場にぶち込ま・・配属されました。

が、ちょうど朝の洗浄作業が終わったところできれいに片付いておりました。隣の厨房では昼食の積み込み作業が行われております。

ここでは収容者と顔を合わす事が絶対にありません。台車に食事のセットを積み込み、所定の時間が来たら刑務官と収容者が取りに来ます。その配膳時はシャッターで完全に隔離されるので、こちらの区画内にはアリ1匹入る事が出来なくなります。いや、アリは入れるんですが。当然収容者とのやりとりなどはありません。僕が抱いていたイメージでは、順番に流れてくる収容者のお皿におかずやらを乗っけていくんだと思っていました。

「ニーチャンこれ大盛りで入れてくれや。」

「あかん、量は決まってんねん。」

「ええやん、いれてくれや。」

「ていうか自分なにしてん?殺しか?」

 

などのやりとりを勝手に想像しておりました(笑)

相手の顔が見えない分安心と言えば安心ですが、作る側はいったいどんな気持ちで作っているんだろう?やりがいなどは求めるもんじゃないのがここなのかもしれませんが、

感想も聞けず、食べている表情も分からない。作り手のモチベーションはどこにあるのだろう?こんな事言ったら失礼にあたるだろうか。

管理栄養士がメニューを組み立ててはいますが、法務省からは「おいしく作ってくれるな」とも言われているとか。そりゃそうですよね。あそこの拘置所飯はうまいぞ、なんて知れたらそれ目的に入る輩が出てきそうですもんね。

 

収容者がそろそろ昼食を取りにやってきます。その間に休憩をとります。

収容者の食事時間はだいたい、朝食7:30~8:00、昼食11:30~12:00、夕食15:30~16:00となっています。

飯食いすぎだろ。ていうかサイクル早すぎひん?

しかし、休憩中に拘置所飯を食べて納得しました。量がやっぱり少ないのです。カロリー計算されたメニューだけあって、最低限の栄養管理にとどめられているのでした。

しかも味薄い…お世辞にも美味しいとは言えない…。こんな事言ったら作っている人に失礼なんですが、大釜に全部ぶち込んでかき混ぜるだけの食事…。しかもほとんどの食材が均一化のため(大きい小さいが原因で暴動が起きる事もあるそうです)細かく刻まれています。うまい訳がないですよね。しかしここではそれでいいのです。そもそもシャバの飯と比較すること自体ナンセンスというものです。

メニューの字面はたいそう立派ですが、実際は※※※※※※でした。(KSMZGR)

しかし毎食メニューが変わるので飽きる事はないのでしょう。また、アレルギー対応、減塩、特別食など、きめ細やかな対応をしているのに驚きました。いや本当にこの待遇の良さは何なんだ?と思わざるを得ません。

今回はここまで。

(肝心の洗い場について何も書いてない・・次回へ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

災害について考えてみた

なるがです。

 久々です。

この連休、とにかくクソ暑いです!熱風です!そして今日の気温はなんと38℃!体感温度は40℃以上にもなるそうです。エアコンなしではとても生活出来ないレベルです。

しかしこんなクソ暑い中、人のために一生懸命働いている人を見ると『感謝』と言わざるを得ません。

ちょっと外に出てみても、郵便配達、荷物の配達、引っ越し屋、家の修繕、電柱・道路工事に警備員と実に様々な方々が頑張っておられます。

快適な暮らしを送れているのもそういう方々のおかげなんですね。

 

話は変わって、最近あった大阪北部地震。人口の多い地域にも関わらず、致命的な被害は少なかったように思います。しかし広範囲にわたって断水、ガスの供給がストップするなど大変な時期がありました。我が家は大丈夫でしたが、職場がちょうど震源のド真ん中で、中は損壊は免れましたが物が倒れたりくちゃくちゃになりました。

そして交通網の完全停止。主要な電車はほとんど動かず、駅の電光掲示板の路線図は真っ赤に染まっていました。こんなの今まで見た事ない。

結局車で職場に向かったのですが、夜になっていたのでとても不気味でした。今ここでもう一発こられたらやばいなと。その日は情報収集だけしてとっとと退散しました。

現在すでに復旧してまた元の生活に戻れているのですが、やはりあの揺れです。いろんなところに爪痕は残していました。

大きな地震の後にはもう一回同じ規模の地震が来ると言われていますが、幸い今のところくる気配はなさそうです。しかし今、人の意識が薄くなり始めた今、もう一度災害について考えなければならない時期なんだと思います。

西日本豪雨による大水害、まさかそこまでくるか!と思い驚愕しました。決して他人事ではありません。なぜなら我が家は河川の横、堤防の真下だからです。

昨年10月に大雨で河川の水位が氾濫レベルを超え、夜中に拡声器とサイレンで避難指示が出たことがありました。

嫁さんと子供は義姉の家へ避難してましたが、僕は大丈夫だろとタカをくくって、仕事が終わってから避難所へは向かわず自宅に帰りました。今から思うとアホな選択だったなと思います。しかし現実は、みるみる上がっていく水位と共に緊張感もけた違いに上がっていきました。すぐ横にある河川が気になり、まともに寝ていられるレベルではありません。そうしているうちに避難指示の放送が。マジで怖くなり夜中でしたが避難しました。

幸い氾濫はしませんでしたが、川はもうタプタプであふれんばかりになっていたようです。大きな川なので万が一あふれた場合、我が家は水没する場所とのことです!ひぃ!

 

自然災害はいつ何時どうなるか分かりません。そしてとてつもない破壊力をもって突然、もしくはゆっくりとその力を人間に見せつけます。その力を前にしたとき人間はなす術がないのです。しかし遠い昔から人間たちは苦難を乗り越え立ち上がってきました。これは本当にすごい事だと思います。

現在西日本の被災地において、過酷な環境と猛暑の中必死で復旧にあたっておられる方々には本当に頭が下がる思いです。そして被災した方々を思うと心が痛みます。

 

自然とは全く遠慮がない。水害の後はとてつもない猛暑をお見舞いしてくるのですから。それとも地球自体がおかしくなっているのか。このような異常気象は日本だけではないようです。

 

地震も水害も、僕はたまたま運が良かっただけで、もしかすると明日被災するかもしれません。南海トラフ地震が30年以内に来ると言われていますが、そうなったときは相当な試練が待っているのかもしれません。今はまだ小さなチビ達も間違いなく経験することになると思います。

ですが悲観するよりも防災の知識を付け、それを子供たちに教えていこうと思います。備えあれば患いなし。その意識を持っていれば少しは事が起きた時でも冷静に行動が出来るのではないかと思います。

しかし相手は自然です。全く予測が出来ません。こればっかりは防ぎようがないのです。なるがままにされるしかないのでしょう。でも備える事は出来る。出来るところからやっていく事できっと役に立つ時があるはずです。

今まで、『自分はたぶん大丈夫』などという意識でいましたが、ここ最近の出来事によって何か真剣に考えなくてはいけないと思うようになりました。ここで僕の悪い癖、思うだけで行動しないという風にならないように!

防災の知識を持つことで被害をかなり減らせることも言われています。

そして快適な生活を送れている代償として自然の怒りを買っている事も忘れてはならないでしょう。

 

 

もうすぐブログ一年を迎えるにあたって思う事

なるがです。

 

昨年の7月5日にブログを立ち上げてからもうすぐ丸一年を迎えます。一年なぞあっという間ですね!早いものです。書きたくなった時に書いてきましたが、気付けば70記事も書いてました!少な!

そして推定2名と思われる読者様、そして直帰でもアクセスして頂いた方々、覗いて頂きありがとうございます。

ここまで来れば完全なる自慰ブログと化してしまったのですが、これからも飽きるまでカキ続けようと思います。

 

さて、最近良い事がありました。なんと4年ぶりにツバメさんが戻って来たのです!ツバメが巣を作ると縁起がいいので、軒先がフンまみれになっていても全く気になりません。

せっせとエサを運んではヒナに与える様子を見ていると本当に気持ちが和みます。何でですかね?

 

片や蜂さんもせっせと巣を作り始めてます。

しかし、僕は出来たばかりの小さな巣を、マグナムジェットスプレーで壊す…。戻ってきた蜂さん、家が無いのに気付いてかなりショック受けただろうな。

数日後、また同じ場所に小さな巣を作っています。そしてまた僕ははたき落とす…。

さらに数日後、また作っている。懲りないヤツだな。それでも迷う事なく僕は蜂もろともはたき落とすのです。

 

ツバメの巣を見ながら優しい気持ちになるとか言いながら、裏では蜂の巣を壊し続けている。蜂さんがマグナムを喰らってピクピク動いていたのがピタと止まってしまった時、ああ、悪い事をしたな…という気持ちになるのです。

蜂とツバメを比べるのもおかしいのですが、この扱いの差は何なんだろう。蜂は僕に何か悪い事をしたか?してないよな。

 

だからなんだという話ですがね。

 

話は変わって。

頭を悩ませていた中途のおっさん。あれから改心したみたい?で、全くもって問題ない様になったのです。何なん?やれば出来るやん⁈

少し強めに、突き放す様に言ったのが効いたみたいです。それからは目の色が違うのが分かりました。その気になれば目が変わる。目は口ほどに物を言うではないけど、目とはそれほど力を持っているのですね。

 おっさんの事をカス野郎などと言ってた自分が醜くも思えます。反省。

 

最近のニュース、子供の虐待やら無差別に人を殺めるやら、本当のカスとはこういう輩の事です。特に子供に対しての虐待はカス中のカスだ。もう何度も何度も同じような事件を繰り返して、そろそろ本気で行政も取り組まねばならないのではないか?

まだ幼い、未来ある子供達が何でこんな酷い目にあわねばならんのだ?何とか出来ないものか。ひとりの親として、子供を虐待する親は本当に許せない。どんな事情があるにせよ、やってはならないのだ。

そ奴らにもう一度敢えて言おう、カスであると。

 

結局何が言いたいのか分からない?その通り、僕にも分かりません。とにかくツバメが戻ってきて嬉しいという事です。

 

 

 

 

 

 

野火

なるがです。

 

野火と書いて「のび」と読みます。

 

野原の枯れ草を焼く火のこと。野原で草木などが燃える火事のこと。

1951年に発表された大岡昇平氏の小説。

 

小説『野火』は、作者のフィリピンでの戦争体験を基に、戦場における極限状態の人間の様を描いています。

 1959年に市川崑、2015年に塚本晋也により映画化されています。

 今回はその2015年版、塚本晋也監督の作品を鑑賞しました。レンタルビデオ屋(死語?)で何も知らずにふと手にしたこの映画、かなり衝撃でした。

 

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舞台はフィリピンのレイテ島。太平洋戦争の後半1944年10月20日、天王山とも言えるこのレイテ決戦において帝国海軍はほぼ壊滅(レイテ沖海戦)、航空機に爆弾を搭載して艦船に体当たりする特攻隊が大体的に出現したのもこの頃からです。

そして『野火』の題材となっている当時レイテ島守備にあった陸軍第16師団1万8千の将兵。その後に投入される陸軍第1師団1万3千の将兵

その後も投入は続けられますが、火力を積んだ輸送船はことごとく撃沈され、武器のない兵隊だけが上陸するという事態になっていました。

総勢7万5千の兵隊達、彼らが目にしたものとは一体どのようなものだったのか。

 

レイテ決戦

マッカーサー率いる700隻もの艦艇がレイテに集結。物量に勝るアメリカ軍は、軍艦による艦砲射撃をレイテ島東岸に向けて一斉に行いました。

日本兵

『艦砲射撃が始まればもう手も足も出ない。砲弾が炸裂して壕の中にいても破片が飛んでくる。当たって倒れた兵隊を起こしたら死んでいました。』

 

4時間にも及ぶ激しい砲撃は海岸の地形をも変貌させます。そしてその後、日本軍守備隊の約3倍にあたる6万の兵力をもって上陸を開始します。

 

アメリカ軍の上陸からわずか10日で第16師団は兵力の8割を失い壊滅状態になります。

しかし通信手段が破壊されていたためこの状況が大本営には伝わらず、逆にレイテのアメリカ軍は敗残兵だと思っていた大本営は、とどめを刺すべく兵力の追加を行います。

 

レイテ島西岸オルモックに第1師団上陸。そこで初めて第16師団の壊滅、敗走を知り、レイテ島中央に位置するリモン峠でアメリカ軍と激突します。アメリカ軍は敗残兵などではありませんでした。圧倒的兵力と火力によって日本軍は完膚なきまでに叩かれます。第1師団の残存兵は800名ほどだったといいます。

 

日本兵

『重傷を負って泣いている兵隊や、火炎放射器で煽られ体中が火ぶくれになった兵隊が裸のまま泣きながら歩いていました。惨めでした。』

 

アメリカ兵:

『攻撃の後に焼け野原に行くと、まだ息のある日本兵には足や腕が無く、目玉が飛び出して顔から垂れ下がっていました。』

 

『ブルドーザーで日本軍が潜む壕を埋めました。全員生き埋めにされたのです。降り注ぐ土砂の下で、息絶えるまで彼らは軍歌を歌い続けていました。』

(出典:果てしなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦)

 

 追われて敗走する日本軍に補給や援軍などは無く、ただ食糧だけを求めながら兵達はジャングルを彷徨う事になります。西海岸パロンポンへ向けての撤退が始まりました。

 

前置きが長くなりましたが、映画『野火』ではこのあたりからの出来事に焦点をあてているようです。主人公である田村一等兵の主観で描かれておりますが、戦争映画に付き物の戦闘シーンなどは皆無であり、只々人間が壊れていく様だけがそこにはあります。

 

太平洋戦争において南方と言えば、フィリピン・ニューギニアソロモン諸島等々、そして、玉砕・飢餓・マラリア等を連想します。

例えばソロモン諸島ガダルカナル島は、縮めて「ガ島」と呼ばれていましたが、「餓島」と揶揄されるほど現場は凄惨を極めました。

 

極度の飢えと疲労に加え、敵からの攻撃、常に死と隣り合わせの恐怖と緊張の中、兵達はジャングルを彷徨い続けました。あまりの空腹に弱った兵隊を殺し、その人肉まで食らう兵もいたといいます。

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 映画中においてもその食人のシーンは出てきます。そして非情なまでにボロボロになった日本兵。あまりにボロボロすぎてキャストが誰なのか分かりませんでした。

塚本監督はあえてきれいに作らなかったそうです。やり過ぎな位がちょうどよいと。

分かる気がします。

そもそも現場を実際に見てないのだから分かるはずがないのです。だけど実際に見てきた人は存在する。僕も想像の域を越えないのですが、実際の現場などはとても表現できるものじゃないんだと思います。だからこそのやり過ぎ描写なのだと理解しました。監督はこの映画の構想に20年を費やしています。

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ヒーローなどは存在せず、何の感動もありません。ただ、そこに描かれている出来事を眼で理解し頭で考えるのみなのです。

 

 

爺さんも同じ運命を辿ったのか ボルネオ死の行進(転進)

話は少し逸れます。過去の記事で祖父の事を書いているのですが、祖父も太平洋戦争末期フィリピン戦線で戦いました。

パラワン島で戦死したとのことですが、とある中隊長の日記で祖父の名前を見つけ(本人の確証は持てないのですが)その日記では隣の島、ボルネオ島にて戦死したとのことです。

 

フィリピン戦線に投入された約50万人の兵士のうち、約40万人は餓死との統計も出ています。

食糧の補給なく、栄養失調で弱っていく抵抗力、マラリアをはじめとした病気の蔓延。それに伴う病死も餓死と同じようなものでしょう。祖父もマラリア脚気により病死したと中隊長の日記にはありました。

 

ボルネオ島のタワオからブルネイまで行けという転進命令(西海岸に米軍接近の報を受けて)を後にこう綴っておられます。

 

『熱帯の道なき道の百数十里の長路悪路、悪天候の行軍、人間業で不可能を強いられた作戦であった。この転進路において多数将兵が命を落とし、健児部隊も一変して廃人部隊と化してしまったのである。』

 

ブルネイ到着までに約2か月半、その間一度も戦闘せず、ただ暑さと食糧の欠乏、マラリアの為に将兵の半数以上は病死。到着した兵も全員廃人の如くという有様でした。

 

 

『誰を恨むでもなく、すべてを自分の精神と体力とに頼り毎日歩き続ける。昼なお暗きジャングルをただ夢遊病者の様な群れが、何の目的もなき如き兵隊のウツロな瞳、追いつ追われつ、統制のない人間の群れが未開の土地を進んでいく。』

 

『野犬は何匹殺して食ったことか。名も知らない草木を食ったことか。英軍の捕虜達が骨と皮との姿で私達との行進とすれ違った時、戦争は勝ってるのか負けてるのか我が身と比べて悲しく感じられた。』

 

『生きたい、生きなければならない、頑張らなければ今死んだ戦友のように誰一人に水の一杯も貰わず死んでいくのだ。』

 ( 独歩三六七大隊第3中隊手記)

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司令部からの人間性を欠いた作戦命令によって、多くの兵隊が犠牲になりました。祖父もきっとこの地獄を見たに違いありません。

目的地のブルネイに到着することなく無念の病死となった祖父ですが、到着組にはさらに悲惨な出来事が待っていました。

 

上陸を暗示させるアメリカ軍による物凄い砲爆を前に、廃人部隊と化した寄せ集めの部隊では歯が立たず、上陸前に撤退命令が下ります。ジャングルの山中へと退却を余儀なくされ、再び死の行進が始まりました。

 

『食糧の欠乏にグッタリと倒れていく兵隊が数を増してゆく。手榴弾による自殺も出てきた。毎日五人、十人と自殺して果てる日本人の姿よ。彼らは日々の苦痛を死によって解決したのだ。』

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 『あちらに二人、こちらに一人と歩行する力も無く横たわり、また座ってウツロな目で何かを考えている姿は人間ではなく兵隊でもない。』

( 独歩三六七大隊第3中隊手記)

 

まさに映画そのままの悲惨な光景が レイテ島以外でもこうして実際に起きていたのです。

 

この映画を見て今思う事は祖父の死についてです。死の間際、残してきた妻や子を思いながら無念に死んでいったのだと思います。

何でこんな所で死ななければならないのだ。まだまだこれからなのに!

この地で亡くなった多くの兵隊達もそう思ったに違いありません。

転進の初期では火葬も行う事が出来たそうですが、後半ではほとんどが置き去り、野ざらしになって行きました。骨も拾ってもらえず朽ち果てていったのでしょう。

 

『野火』とはきっと、火葬出来なかった兵隊たちへの弔いを込めた火(題名)なのかなとも思います。

露営による火、砲撃による火、火炎で人間が焼かれる火、そして火葬による火。この戦場を一言で表す言葉なのかな?僕はそんな風に捉えました。

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そしてこの映画を手に取らせたのはきっと祖父なんだと思います。終戦5ヶ月前の無念の死、僕が知りたかった事をこのような形で教えてくれたのです。

そんな風にも思わざるを得ない、大変貴重で衝撃を受けた映画となりました。

戦争で格好良く死ぬなんてのは幻想です。こういった映画こそ見るべきだと思うし、知る必要があるのだと思います。

 

 

 

J.S.Bach BWV1006a リュート組曲 ホ長調 プレリュード

なるがです。

 

ヨハン・セバスティアン・バッハ。18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家です。現在バッハの名を知らない人はほとんどいません。日本では音楽の父とも称されてますよね。音楽のジャンルに関係なく、バッハから多大な影響を受けているミュージシャンも大変多いと聞きます。それほど超絶有名な偉大な音楽家、バッハが僕は大好きです。

G線上のアリア」しか知らないエセバッハファンなんですが。

バッハの曲って独特の音階というか、メロディを持ってるんですよね。そこが心地よく感じるのですが、今回はバッハのそれを堪能できる曲を紹介したいと思います。

「BWV1006aプレリュード」です。

ん?ビーエムダブリュー…?頭文字を見ると僕は未だに車が頭に浮かびます。いえ、「B・W・V」です。『Bach Werke Verzeichnis バッハ作品目録』とwikiさんが言ってます。

バッハのおじさんはwiki先生にお任せするとして、曲の紹介を。

僕はこの動画を見て、曲と演奏者の両方にノックアウトされました。


www.youtube.com

誰だこれは?

『ジョン・ウィリアムス』

クラシックギター界においての重鎮であり、商業的に最も成功しているギタリストでもあります。残念ながら2013年に演奏活動を引退したそうですが、現在も業界では健在だということです。1978年の映画『ディア・ハンター』のテーマ曲、『カヴァティーナ』の演奏が有名です。僕もそれで知りました。

 

しかしこの曲、初めから終わりまで本当に聴き飽きない。ぐいぐいと引き込まれてしまいます。

メロディもさることながら、ジョンのテクニックに脱帽です!思わず見入ってしまいます。まるで機械の様な正確無比な運指。音の粒、キレ、緩急、どれをとっても非の打ち所がない。(ように見える)

この曲がギターと言うところがミソで、リュート(主に中世からバロック期かけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称、別称:洋琵琶 引用wiki)用にわざわざヴァイオリン~オルガン~と書いたものをさらに書き直したと言われています。バッハのお気に入りの曲だったようです。

 

実はこの動画を見てまたもや「弾いてみたい欲」が出てきて、練習を始めました。

3小節で挫折しましたよ。

 

えげつない難しさ!ジョンが涼しい顔で弾いているので出来るかな?と思ったら大間違い。やっぱ独学では厳しいな。でもいつか弾けるようになりたいぞ。

 

このおっさん、否おじいさん、いや、ジョンですが、息子のクラブの先生に似ているのですごく親近感が湧くのです。そんなことはどうでもいいのですが、もっと気になるのが、服装が普段着すぎひん?地味というか、なんでそれなん?

まぁそれこそ余計なお世話じゃぼけ!と言われそうです。

 

完全にコタツとみかんが似合うやろ!後ろにコタツとみかん映ってないか?初めて見る人はおじいさんが趣味で弾いているくらいにしか見えないぞ?

ちなみにココはアルハンブラ宮殿だそうです。超一流ギタリストですね。すみませんでした。


Asturias-John Williams

またそんな普段着で。しかも廊下で弾いてる。

ボーダー柄が好きなようですな。しかしトレモロ奏法と言うんですか?こんなスペイン風の楽曲も超絶に上手い。ますます好きになります。

 

あ~生演奏を聴いてみたい!もう叶わぬこととなりましたが。

 

 

最後に若かりし(といってもおっさんですが)頃の『カヴァティーナ』の演奏です。

この曲からクラシックギターの世界にはまりました。


John Williams - Cavatina (Live 1979)

 

バッハを伝えたかったのに、なんでこうなった。

 

 

敢えて言おう、カスであると

なるがです。

 

(今回はただの愚痴になりますので、特に読む必要はありません。)

 

現在、例のおっさん中途社員の事で少し悩んでいます。

早い話が、『使えない』のですが、この人物がさらに輪を掛けてヒドくなっているのです。どうひどいかと言いますと…

  • 四六時中ボーッとして目が一点を見つめたまま
  • コミュニケーションを取らない、笑わない
  • 言われた事をしない、忘れる
  • 一から十まで教えないと出来ない
  • ミスはやりっぱなしで報連相なし、いつもスタッフがケツを拭いている
  • 分からないのに分かったと言って、失敗してから謝る
  • 嘘をつく
  • 見えてないところで悪態をついている
  • 接触系のセクハラ疑惑。女性スタッフからの苦情がすでに3件上がっている。などなど…

 

まだまだ書き足りないのですがこのくらいで。女性スタッフが多い職場ですのでセクハラ疑惑だけは見過ごせない部分です。

ここ1.5ヵ月ほどですが、なんやかんやと毎日問題を起こしてくれます。

ついこの前は大寝坊したのを、実は病気だったと言って勝手に病院へ行っていたり。電話で起こした時パニックになっていたので、「慌てずに来たらいいから」と言ったにもかかわらず!

それから体調が悪いと言い1週間欠勤しました。

その穴を埋めるのにまたひと苦労です。

 

最近ではスタッフもガマンの限界で、「教えても教えてもちっとも良くならない」と嘆いて来ます。また、セクハラ疑惑にあった女性スタッフは、「気持ち悪くて一緒に働きたくない」とも言いだしました。

これでは職場が崩壊しかねない。

 

このような仕事の出来ない人物は何処にでも居ますが、僕が見てきた中で最低です。

真面目系クズかと思っていたら本当のクズでした。

 

いえ、こんな人でも、温かい心で、根気よく付き合って行こう!きっといつか良くなるのです!相手の個性を良く見て、相手に合った指導をしていけば、いつか仕事が出来る様になるのです!

 

 

 

 

ならねーわ

 

 

自分が迷惑をかけている自覚があり、出来ていない事を謙虚に受け止め、かつ自発的に改善していこうとする行動が見受けられた場合、そう思える。

 

が、このオッサンは本当のクズだ。いや、

敢えて言おう、カスであると

 

人の見てない所では手を抜きまくっているのを何度も見ている。注意はしつつ、信じて泳がせてもみたけど、仏の顔も三度までだ。

これ以上スタッフに負担はかけられない。

 

かと言って辞めさせる事も出来ないので、他部署に異動してもらおうと思っている。

そんな偉そうな事を言って、自分もそうだったではないか?と自分を責めてみたくもなるが、いや違う。それとは根本的に何かが違うのだ。新入生ならともかく、40を過ぎたオッサンがこれでは見込みはない。

優しく、時には厳しく、時間的な猶予も与え指導してきたが…。

 

 

 

だけど、あと少しだけチャンスを与えようと思ってます。もう一度危機感を持たせた上で、頑張りを見てみるつもりです。

どこまでも甘い僕なのか?バッサリ切った方がいいのか?最近ウツになりそうなくらい頭の中を支配しています。

 

なまじっか表面上はとても穏やかで、害がなさそうに見えるのが厄介なのです。

「えっ⁈この人が?」と言う犯罪者は後を絶たない。急にブチ切れたり、積もり積もったものを爆発させることもあり得なくはありません。

前職はチーフと喧嘩して辞めたと言ってましたが(これも問題)、思うに正当な喧嘩ではなく、このタイプは一方的な逆ギレで辞めたのだろうと言うのが僕の見解です。

 

あとでドエライ目に会う前に、強い気持ちを持ってしっかりと見極めなければならないと感じます。チームを、職場を守るためには、中途半端に優しいだけではダメなのです。

お試し期間は終了だ!

 

 

 

 

 

27年振りの再会

なるがです。 

 

先日、27年振りに!懐かしい友人と再会を果たしました。

連絡もせずにいきなり訪問するという、ある意味無謀な賭けとも言えたのですが、本当に運良く再会する事が出来ました。まさに奇跡です。

というか、奇跡を期待するなって話ですね。ちゃんと前もって連絡はしといた方がいいです。

 

27年も経つと、記憶もさる事ながら色々と随分と変わっている筈です。覚えてくれているだろうか?

「え、えっと…?誰…⁈」

とならないか、それだけが心配でした(笑)

長い年月を経ての『いきなり訪問』とはそんなリスクも含んでいます!気をつけましょう!僕だけかと思いますが。

家族旅行中のついでに急に会いに行こうと思い立ったのですが、当然妻からは大ブーイングです。日程変更、しかも何故そんな事をする?と言わざるを得ない連絡無しの訪問。もし会えてなかったら多分殺されてました。

 

彼は飲食店の店長をしているという情報をフェイスブックから得ていたので、お店に直行します。しれ~っとお店に入り、そこで食事を頂く予定だったのですが、なんとスケジュールが押してまさかの閉店時間オーバー。マジかよっ!しかし19時は早すぎでしょ~。

到着したのが40分後の19時40分。でも店長なので絶対居る筈!と推測しますが、すでに退勤してたりして…そもそも休みだったらどうしよう…。ころされる…。

お店に電話をかけてみます。・・・・・・プルルルル

 

出ました!!スタッフさんが出て、店長につないでもらいます。

緊張の一瞬です!

しかしどうやら同姓の別人と思ったらしく、やたら丁寧語で話してきます。なかなか思い出してくれなくて焦りましたが、やっと僕だと理解したようで急に口調が変わりました。あ~良かった!まぎらわしい存在の人の前置きとかいらんて。記憶から削除されてたかと思いました。

 

閉店後の店内に入れてもらい、少しの間でしたがひとときの会話を楽しみました。よく考えると、閉店後でなければこうしてゆっくりと話したりは出来なかったでしょう。ツーショットで写真も撮ることが出来ましたし、営業中ならまず不可能だったと思います。あぁ、これは神様が、僕らが会えるようにわざと時間をずらしてくれたのだなぁ。粋な計らいをしてくれるではないか神よ。感謝。

 

彼は今の仕事は超絶ブラックだと笑いながら言っていました。確かにやばいブラックでした。しかし、気持ちひとつで楽しくもなる。笑う事は本当に大事。と言っていたのに感銘を受けました。僕の職場も同様にブラックですが、その気持ちはありませんでした。気が付けば愚痴や出来ない事を羅列していた自分が恥ずかしくもなりました。

洗脳とは違う、社畜でもなく、彼の生き方、生き様なんだと思いました。

27年前の彼も、今と同じようにいつも笑って、まわりを明るくしていました。これは今でも少しも変わっていない。決して無理している訳ではなく、身体からにじみ出てくるものなのでしょう。

 働き方云々と言われているご時世ですが、それ以前に大事なことを教えてくれた気がします。

 

別れの時、がっちりと固い握手を交わし出発しました。彼は車が見えなくなるまで大きく両手を振ってくれていました。僕も窓からずっと手を振ってました。とてもとても短い時間の再会でしたが、こうして繋がった事でまたいつか会えると確信しました。

会えた事に興奮しすぎて、僕の近況報告をすっかり忘れてた事に気づき、後日突然の訪問のお詫びと感謝のメールを送りました。しばらくして返信があり、感謝の言葉と、あの後僕らが去ってから泣いてしまったという内容のメールが届きました。

 

会いに行って本当に良かった。僕の人生の中でこの再会の一コマはずっと記憶に残り続けるでしょう。そして最近あった出来事の中で間違いなく一番うれしい出来事となりました。

27年振りのサプライズ再会は大・大・大成功でした!