なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

Choo高年TRAINで行こう

なるがです。

 

  小学生の頃、友達とのやりとりの中で頻繁に出ていた「オレ、命かけれるし!」というフレーズを久々に耳にしました。いったい何を根拠にそう言えるのか良く分からないのですが、今考えてみると深みのある言葉だな〜と思うのです。

 

  この文言はキメの一手、相手に譲歩を促す事が出来る最強ワードとして、当時は誰もが使いまくっていた記憶があります。間違いなく命をかける気などサラサラないのですが、それだけ「俺は本気だ!」と伝えるのに非常に役に立っていました。

皆があまりに多用するので、「お前、命かけるか?ヒヒヒ……」と逆に突っ込まれるなど、もはや命が軽く弄ばれているだけで、ただのハッタリ合戦と化していたのでした。

 

  50歳を目前とした今の自分に「オレ、命かけれるし」と言い切れるモノはあるか?と問うと、真っ先に思い付くのが『家族』になるのだと思います。だけど家族の何に対して命をかけれるのか? そう考える時、それはそれで素晴らしいのですが、命をかけても死んでしまっては元も子もないな、とも思うわけです。ギリギリのラインを攻める訳です、命をかけるという事は。

間違っても命をかけるのは『仕事』でない事は確かです。

 

  家族を養うために朝から晩まで必死に働き、子どもたちの為に少しでも多く蓄えを残し、命をかけて守って行く……アレレ? どうも命をかけているのが『仕事』のようで何だか腑に落ちない感じもありますが、それでも万が一死んだらどうなる? 残された家族はどうなる?人はいつ死ぬかは分かりません。明日死ぬかもしれませんし。

 

   今思うのは、如何にして長く生きるかに命をかける、即ち「死なない生き方」をする事です。僕は生きて未来を、出来るだけこの目で見てみたいのです。まぁいずれにせよ死ぬんですが。

 

  また、残される子供が必ずしも幼いとは限りません。今深刻化している8050問題、ちょうど僕と同世代です。親が死んだあと引きこもっている中高年の彼らが取り残される問題です。現在引きこもっている中高年は推定61万3000人と言われています。しかし実際にはもっと多いとの報告もあります。僕の両親は有難い事にまだ健在ですが、80になろうかという年齢、まさに8050どストライクな時代にいます。

 

 過去に「5080喜んで」と保険のキャッチフレーズがありましたが、この数字ももはや違う意味と化し、全然喜べない非常に重い数字となりました。

  同級生にも数人いると風の便りに耳にしたことがあります。40を過ぎてから引きこもる事も多く、その原因はとても複雑です。社会生活での挫折や鬱がきっかけで退職、復帰できずに引きこもるパターンが多いと言います。

 

  これは本当に良く分かります。僕も42歳で転職した時、次の職場が中々決まらず無職に王手がかかる恐怖を味わいました。20代での無職などとは比べものにならないくらい焦りと不安は桁外れでした。これは体験しなければ分からないでしょう。

  もうダメだ…と諦める寸前で仕事が見つかり現在に至るのですが、そこで諦めていたらどうなっていたか分かりません。復帰のタイミングを逃し、引きこもっていたかもしれません。

 

  また、18歳から21歳の頃は視線恐怖症?のようになり、とにかく人の多い場所では注目されていると錯覚し、街へ出る事が恐怖だった時がありました。

  今思えば充分引きこもる要因になる出来事だったと思います。気持ちを落ち着かせるサプリを飲んだり(全く効かなかった笑)、負けそうになる自分にムチ打って外へ出るようにはしていました。引きこもれば安心出来ましたがとにかく認めたくはありませんでした。認めたら負けだと。

 

  話は少し逸れますが、その頃バイクに乗っていたのでいつも一人で走っていました。

  バイクに乗っている時は孤独だけど孤独じゃない。こいつのおかげで外にも出れたし、知らない世界を知る事も出来た。引きこもらずに済んだのも、こいつのおかげだったのかもしれません。

 

  かと言って今引きこもっている中高年に今すぐ社会へ出ろと言っているわけではありません。最終的には出ろになるんですが、やはり出た方が良いと思います。働くと言う意味で。働く意思はあるのだからきっとまた出来ると思います。

  彼らが復帰するにあたり、僕が思う一番重要な事、それは受け入れ側の人間次第だという事です。

  働くという事は、色んな人の中へ、色んな価値観の中へ入らなければなりません。しかし悲しいかな、いつの時代も何処にでも人をイビる人間は存在するのです。そのような職場や人間に当たるとめっぽう弱いので、すぐに逃げたくなります。

 

  そして僕と同じ中途採用組。彼らはいつもプレッシャーに晒されています。入って比較的直ぐに辞めて行くのも、そのプレッシャーに耐えられず馴染めないからです。

  特に中高年に対してはアタリがきつい様に感じます。歳の離れた年下からアゴで使われたり、暴言を吐かれたり、毎日の様に噂されていたり。要は「品定め」されている状態なのです。それに耐えられずに辞めていった人間をたくさん見てきました。

  そして常に悪いところを探し、それを話のネタにしているタチの悪い人間もいます。良い所を客観的に見てくれる人間は本当に少ないです。

 

  辞めていった人たちはその後どうしているか分かりません。

  政府は非正規雇用の正社員化を図っているそうですが、今引きこもっている彼らを雇えるように出来ないものでしょうか。

  上記のように「非正規の中高年はクズ」「無職は犯罪者予備軍」みたいな見方をする人間は確実に存在します。これが引きこもりを増長させている元凶のひとつとも言えます。言わせてもらえばクズのような正社員こそクソ程います。

 

  この8050問題は彼ら本人の努力も当然必要です。否、自分以外に解決できる方法はないでしょう。覚悟を決める事も必要です。それこそ『命をかけてでも』です。

 その努力を後押し、フォローできる体制、受け入れ側の人間の意識、働きやすい環境を提供する事、それが私たちの出来る事です。即効性はありませんが、じっくりと時間をかけて丁寧に行えば彼らが自立できる可能性も見えてくるのではないかと思うのです。しかしどちらが折れても上手くいかない。

 

  弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く世の中、必要なのは私達が受け入れ、手を差し伸べてあげる事です。

 この問題を放置すればどうなるかは火を見るより明らかです。見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくっている彼らを、この先どう導いてあげられるのか。50と言ってもまだあと30年は生きられる時代なのです。

 道のりは辛く険しいものになりますが、土砂降りの痛みの中を傘もささず、やらしさも汚らしさもむき出しにして走り、栄光へ向かって走るあの列車に乗って行こう。

まだ間に合う。人生はまだまだ終わっていない。終わらせてはいけない。

 

  と、綺麗ごとばかり述べて、考える事は理想が高く、実際は何も動かないのが僕という人間です。

今は自分たち家族が生きるのに精一杯だけど、同世代としてこの61万もの人たちをどうにかしてあげたいと。その思いだけです。

 

 ただ最後のほう、あざとく、暑苦しい、くどい文章になってしまったのはご容赦くださいませ。。。

 

 

  

家で飲む

今週のお題「家で飲む」

 

なるがです。

 

そもそも僕は家で飲みません。

 

「家で飲む」というお題を完全無視した開き直りの様な言い出しです。飲まないと言ってしまうとこれで話は終わりとなってしまうのですが、さすがにこれではいけないという事で少し考えてみます。

というかこれはアルコールの事を意味するんですよね普通は。まさか味噌汁とか、ジュースなどを連想する人はいないと思います。

「俺はジュースは家で飲む」これは一体何をしたい人なんでしょうか。すごいこだわりを感じるのですが、よく考えるとわざわざ「家で飲む」事を別に報告するまでもないですね。でも、味噌汁ならどうでしょう。「味噌汁は妻の作った物しか飲まない」と言うなら「家で飲む」のもアリかも知れませんが、最近はどうなんですかね、旦那さんの為に味噌汁を作ってくれる素敵な奥さんはいるんでしょうか。なんて言ってると時代錯誤と言いますか、は?私はあなたの家政婦と違うし!と言われそうです。

悲しいかなめっきりそんな風景もイメージしにくい時代になりました。なんかほっとするイメージがあるんですよね味噌汁には。そんなイメージは古臭くてダサいだけなんでしょうけど。憧れではあります。

  あと、家で飲むものには「カレー」もありますね。「カレーは飲み物」と上手いこと言う人もいましたね。実際にタイカレーなどはシャバシャバでまさにカレーは飲み物です。え?そんな意味ではない?

いえいえ、あまりにも速くカレーライスを食べる事から、「カレーライスは飲み物」との名言が生まれたそうです。

また、同名のお店も存在しており、当時は斬新すぎるネーミングに唸りました。

「カツカレー専門店 カレーは飲み物。」の他に、「とんかつ専門店  とんかつは飲み物。」というお店もあります……いや、流石にとんかつは飲み物ではないと思うのですが。

今期間限定で「カ令和飲み物。」とやっていました。

 

「俺はとんかつは家で飲む」…意外に使えるかも知れません。

 

あと家で飲むものと言えば……水?

はたまたお茶? コーヒー、紅茶もありますね。

自分だけの時間に(そんなものありませんが)とっておきの飲み物と共にリラックスタイム。最高ですね。

スープなどもたまには家で飲むのもいいんじゃないでしょうか。(イライラ…)

 

あと家で飲むものは薬くらいじゃないでしょうか。加齢が進行中ですが、幸いまだ薬の世話にはなっておりません。しかしこれも時間の問題でしょう。

健康が一番大事ですよ。本当にこれに尽きます。身体は大事にしなくてはいけません。

僕はタバコもやめましたし、ジョギングも始めてようやく健康について考えるようになりました。ジュースなどの糖分摂取も控えなくてはいけませんね。

 

最近は走った後、風呂あがりにフレッシュレモンを放り込んだハイボールをグビッとやるのが好きです。(飲むんかい)

あれは何杯でも飲めますね。

僕は1杯で充分なんですが、奥さんがそう言ってました。

 

迷いと決断

 

 迷いとは常に付きまとうものです。一体何が正しくて何が誤りかなぞ分かりません。

これでいいのかな?といつも思っていますし、これだ!と思ってもやはり迷い続けてたりします。当然欲も絡み、楽な方、自分が得をする方を選んでしまうのは仕方のない事。人間とはそんなものです。

 『迷った時は自分にとってしんどい方を選べ』とよく聞きます。これはあながち間違いではないと思います。ドMの思考法……もとい、自分が鍛えられる、経験値を上げるなど、普通にしていては得られない何かを得る事が出来るからです。楽な事からは何も得られません。得られるとすれば、これでいいんだろうか?という『気付き』くらいなもんでしょう。さらにそこから行動に移すかどうかで意味合いが全く違ってきます。

 

しんどい中には真理が埋もれています。ん?真理とは何か?……分かりません(笑) 

でも言わんとしてる事は分かりますよね。そう言う事です(逃げた)

なんやかんやとみんなそのような経験は積んでいるんです。自ら選んだ人、選ばざるを得なかった人、問答無用で選ばされた人。いろいろだと思いますが、その経験の中にハッとするものがあったんじゃないでしょうか。あとになってやっぱりいい経験だったと思えるような事があったはずだと思います。

 人はいつも選択の場面で迷います。僕もしんどいのは嫌いなので出来れば楽したい。なるべく多くを得たい。究極を言えば楽して多くを得たいに尽きます。

だけど、いい経験を得られると知ってしまった以上、ぬるま湯から出たいと思う人はたくさんいると思います。間違いなく茨の道になると分かりながらその道を選択する人達。

その道を選択する事は、出会う事のない人達との出会い、出来なかった経験、新しい発見、いろんなものが自分にもたらされます(たぶん)

 ただ、人間だからその道を選ぶ『決断』に躊躇します(ここでようやく決断出現、ふぅ)

 

 迷いと決断はセットです。定食みたいなもんです。安くて量が多いもの、質重視、デザート付き、どれを選ぶのも自由です。そして思うのです。

あぁ、あっちにしていれば良かった!と。結局、迷い→選択→決断→行動→迷いw に落ち着くのです。言い換えれば初めから迷う必要などない。

この際迷うのはもうやめよう!(無理あるな)

 

 だけど選んでしまった以上それを戻す事は出来ません。その選んだ天津飯定食の中に光るものがあるかもしれないのです。おや?この餡のとろみ具合は最高じゃないか。など。

たとえ話がイマイチ的を得てなくてすみません。

 

 「迷い=悩み」とも言えます。人間は大いに考え悩むべきです。この『悩む』作業は欠かせません。これが無ければ選ぶことすら、決断する事すら出来ないのです!

大げさに書いてますが当たり前のことを言ってるだけですね。しかも迷うのはやめようと言ったばかりですが…。

 

 僕は42歳で転職をしました。42歳で今の地位と収入(どちらも高くない)を捨て、新たな環境に身を置く決断は並みのメンタルでは出来ません。かなり迷いましたがその時は決断するなら今しかないと行動に移しました。今からつらつらと書くと話が長くなるので割愛しますが、茨の道だった事は確かです。ですが今思う事は、やって正解だったという事。この決断は正解だった。

しかし正解を突き詰める事は不可能です。最初に述べたように何が正解かなぞ分からないからです。決断したことを迷うより、その中で良い事にフォーカスし、経験を積む中でようやく正解らしきものが見えてくるのです。

正直なところ、転職しなければもっと良くなっていたかもしれません。しかし何度も言うようにそれは分からないのです。

迷いと決断とは何を選び取るかの作業でしかない訳です。

 毎日安定の「ラーメン定食」を頼むか、冒険して「日替わりミステリー定食」を頼むのか。それによって得られるものは言わずもがな、ですよね。

ラーメン定食を選択していれば絶対に間違わない。だけどそれ以上の事は絶対に知る事は出来ない。自分自身のために、たまにはミステリー定食を頼んでみてもいんじゃね?くらいなもんです。

 

まぁたいていは後悔するんですが。

 

 

 

なつかしい歌謡曲は名曲ぞろい

なるがです。

 

 突然ですが、急に聴きたくなる歌謡曲ってありますよね。何かの拍子にふとメロディがよぎり、どうしても聴きたくなる、というやつです。

僕もたまにそんな時がある訳で、とある曲を検索してみたのですが、それ以上に懐かしい名曲の数々がずらり!本来の検索そっちのけでYouTubeの動画が止まらなくなりました。

 僕のようなおっさんになると知っている曲数も必然的に多くなります。今までサビしか知らなかった曲も、一曲通して聴くとめちゃくちゃイイやん!と新たな発見もありました。

 30年前は動画サイトなぞ無く、動画と言えば洋物のエロビデオを友人達と目を細めながら見るくらいでした。無料でこんな貴重な映像が見られるなんて本当にありがたいですよね。名曲を簡単に知る事ができ、聴けてしまうのですから。無料で。

 やっぱり、と言うか、昭和の歌謡曲はいい。凄くいい。歌というものの姿を見ているようです。 最近の楽曲も良いものはたくさんあると思いますが、おっさんはそれらに付いて行けず過去の懐かしい思い出を求めてつい振り返ってしまうんですね。ノスタルジー全開です。

 

 10代はリアルタイムで聴き、20代ではカラオケで歌うために曲を聴き、30代で何が好きか分からなくなり、40代で過去に遡り始める。

 そして気づいたのです。聴きたかったのはこういう歌なんだ!と(大げさ)

ここに挙げればキリがないでしょうけど、僕的に心にグッときた曲をちょっとだけ挙げてみますね。(いらない?)

 リストがむちゃくちゃですが名曲ぞろいだと思いません? 特に「悲しい色やね」と「もうひとつの土曜日」これがめちゃめちゃ渋い。渋すぎ。

歳を重ねてきた今だから、何かジーンと来るものがありますね。


上田正樹 悲しい色やね ~OSAKA BAY BLUES.MP4

そしてこの曲。

 これはマジでやばい名曲。サビしか知らなかったのですが、今回初めて通して聴いて唸りました。歌詞、メロディ、世界観、歌声。もっと早くに聴いておくべきでした……。


薬師丸ひろ子 Woman ~Wの悲劇より~

 

 

 

 ……そんな大変有意義な時間を過ごしていたかと思えば、話はガラッと変わります。

 15日、カーナビのワンセグ受信がNHKとの契約義務有と認めた判決のニュースがありました。これはないんちゃいますか?ナンボ何でも押し売りが過ぎるでしょう。

 カーナビを設置する目的は道案内であり、テレビの視聴ではない事は誰が考えても明白。しかし判決は、「設置することは受信設備を使用できる状態に置くこと」を指し、「自宅周辺では電波が届く環境にある」からアンタは設置者とみなす、との事。

カーナビ使用の目的を完全無視、むしろ論点をすり替えているとしか思えません。自分の都合の良い様に解釈し、持って行く、無理やり捻じ曲げるやり方はお得意のご飯論法と言わざるを得ません。

 

 もっとも受信料に関するトラブルは今に始まった事ではありません。そもそも法律で定められているから義務なのだ、と言われても契約した覚えもないし、何もかもが非常にあいまいです。ハッキリしない訳の分からないモノにお金を払う訳がありません。

法律が……と言えば免罪符になると思っている所もいけ好かない。勝手に契約されるなど「ワンクリック詐欺」と同じではないか。違うかね?

 

 そういう僕は今でもシコシコとほとんど見ないNHKに受信料を払い続けています。滞納などしたことありません。強硬に反論する妻も説得して、それでも良い所があると。でも心の中では何か腑に落ちないと思いつつ、それでも払い続けているのです。

 ずっと前から問題になっているのにいつまで同じことを繰り返すのだろう?

カネを取るのか取らないのかはっきりして、取るならしっかりと国民が納得できる説明は必須です。情報があふれまくっている現代に、ココにお金を落としたいと思える何かが必要なんではないですか?法律が……ていつまで言っているつもりです?

強引に徴収するやり方もいろいろ聞きます。北風と太陽にたとえるなら間違いなく北風です。このゴタゴタもそろそろ着地点を見出さなければならないと思います。

 

「有料放送のように見たい人だけ見れるようにする」

 

それが一番手っ取り早い、納得してもらえる方法だと思うのですが早計ですかね。しかし災害発生時等は開放する。それこそ国民のためになるんではないかと思います。そんな時でも有料で~すとか言うなら完全に終わってますが。

 僕は払わないとは言ってません。現に今も払っています。NHKの作るドキュメンタリーなどは大好きですし、いい番組がたくさんあります。災害時などは一番頼りにしています。そういういい面がたくさんあるのに、今回の判決でイッキに冷め(覚め)ました。必死感がすごい。

あまりメリットが感じられない今、この払っているお金にいったいどんな価値があるのだろうと思います。ちりも積もれば山となる。利益7000億円?すごいですね~。徴収しすぎちゃいます?

 

 実際あまりテレビも見ませんし、僕はYouTubeの無料動画だけで充分ですわ。

 

ところで、ふいにどーしても聴きたくなる歌謡曲は何だったのか答えてませんでしたね。

検索してまでど~~しても聴きたくなる歌謡曲とはいったい⁈

 

 

 

 

ル・クプル

 

 

 

 

『ひだまりの詩』

 

 

 

最強。

 


ひだまりの詩/Le Couple (OFFICIAL MUSIC VIDEO)

 

 

子供たちを守る為に私達はどんな運転をすべきか、ダラダラと考えてみた

なるがです。

 

 横浜母子死亡事故から幾日も経たずして、またもや園児2人が自動車事故に巻き込まれ亡くなりました。毎日必ずどこかで交通事故が起きていますが、特に幼い子供たちが巻き込まれ犠牲になる事故はどうしても納得がいかないものがあります。運転する私達が常日頃から注意していれば、意識していればこんな事は起こらない、助かる命だったはずです。

今更事故の状況についてああだこうだ言うつもりもありませんが、これだけは言いたい。やはり運転する者の謙虚さが足りなかったと言う事です。

 

  俺が先。こういうドライバーも結構多いと感じます。僕も運転しますが、そんな場面に出くわしたら面倒なのでパッと譲る事にしています。そこで頑固に、ここは俺が優先だなどと思うからややこしくなるのです。即座に譲る決断をする事でストレスもほとんど無くなりました。先手必勝ですね。

 

 今回の事故も謙虚さが欠如した運転でした。どなたも言っておられる様に、どちらかが思いやりを持って謙虚に運転していればこんな事故は起こらなかったと。まさしくその通りだと思います。お互い何を思って運転していたか分かりませんが、

「私は直線だから優先!ブレーキなど踏まない!」

「無理矢理曲がってしまおう!相手は減速してくれるだろう!」

などと思っていたかもしれません。

または、

右折などさせるかと逆にアクセルを開けるか、

減速ぜざるを得ない状況にしたらいいのだ。

と思っているか。ここまできたら相当悪質です。

 

それに加え運転技術、判断力、情報収集についても追求していかなければならないと思います。これらの不足によっても事故は起こるのではないでしょうか。

今ほとんどを占めているAT車はチャリンコ感覚で乗れてしまいます。まるでゲームの様にです。現に中学生ですら運転出来ているのですから。簡単過ぎてまるで緊張感がないのは大変危険な事だと思います。上記に挙げた運転に必要な事がまるで役に立っていないと感じます。

 

 車の運転について、理想論を並べ立てているだけなのですが、これらは当たり前に出来て当然な技術だと思うのです。車はオモチャでもないし、ゲームでもない。運転をミスったらコンティニューは出来ないのです。事故を起こす人はこれらを甘く見ていると言わざるを得ません。
  車とは予測しながら運転するものです。2手、3手先を考え、予測して行動しなければなりません。それはスピードが速くなればなる程、情報が入りにくくなり、的確な操作、対応が出来なくなるからです。あっと思った次の瞬間にはコトは起きているのです。

今回の事故は、見通しの良い、比較的情報が収集しやすい状況であったにも関わらず起きてしまいました。物陰からの急な飛び出しでもない限り起こりえない事故です。

運転に対する慢心、自己中心的な思考が生んだ事故だと考えます。

  例えば交差点に直線で進入する場合、僕は200ⅿほど手前からこんな事を予測、考えています。

  • 交差点到達まで何秒か
  • 現在のスピードは
  • 周囲に車は何台いるか
  • 歩行者信号は点滅を開始しているか
  • 対向右折車はいるか
  • 横から何か来る状況はあるか
  • 歩行者の存在、人数と年齢層
  • 走っている自転車はいないか
  • 前方及び後方の車間距離はどうか
  • 追突の可能性はないか
  • 減速か加速か
  • 交差点に進入して大丈夫か

 

などと考えながら交差点に進入します。めちゃくちゃ考えてるやんと改めて思いますが、実際に考えている時間は3秒くらいです。

こんな事普通の人が出来るわけないでしよ!、ましてやおばちゃんが!お前こそ何モンだ!などと言うなら運転はやめた方がいいと思います。これはやらなければならない事です。

しかしほとんどの人はこれらを無意識のうちにやっています。これでもまだ少ないのではないでしょうか。

  無謀な運転をする者は後をたちません。いちいちこんな事やってられるかい!と思う人がそうなのでしょう。自分で死ぬ分には何も問題はないです。どうぞ好きなようにやってくれて結構。ですが関係ない他人を巻き込んでの事故はふざけるな、です。


『車は急に止まれない』
これも、車とはスピードが出てる物だから飛び出しにはすぐに対処出来ない。と、いかにも車は悪くないみたいに聞こえますが、そうではないと思います。車は急に止まれないからこそ、運転している私達はいつでも止まれるような運転をしなければならないのではないでしょうか。車が主役ではないのです。意味を履き違えない様にしたいものです。


 歩行者を軽く見てすごいスピードで走り抜けていく車。例えばこれも事故を起こしたらきっとこう言うのでしょう。
「歩行者が急に飛び出してきた」

確かに飛び出してくる事も実際多いでしょうが、この考え方を改めなければなりません。歩行者のせいじゃない。アンタの運転が悪いのです。歩行者だけではなくすべてにおいて当てはまります。

  僕自身も過去にバイクを運転中、スクーターの信号無視による飛び出しをかわし転倒したことがあります。その時僕は青信号をいいことにスピードも相当出していました。緊張感の欠如、そして予測を完全に怠っていたのです。

幸いにもケガは軽微、自損事故となりましたがバイクは廃車、一歩間違えば死亡事故に繋がっていました。


何が起こるか分からないから、予測して運転しなければいけない。

 

ハインリッヒの法則

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ハインリッヒの法則(ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law)は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。

 

傷害を伴った災害を調べると,傷害は伴わないが類似した災害が多数発見されることがよくある。潜在的有傷災害の頻度に関するデータから,同じ人間の起こした同じ種類の330件の災害のうち,300件は無傷で,29件は軽い傷害を伴い,1件は報告を要する重い傷害を伴っていることが判明した。このことは5000件以上について調べた研究により追認されている。

--H. W. ハインリッヒ、D. ピーターセン、N. ルース(著)井上威恭(監修)、(財)総合安全工学研究所(訳) 『ハインリッヒ産業災害防止論 海文堂出版(株) 1987年(昭和62年)9月 2版 ISBN 430358052X p59-60』

(引用:Wikipedia

 

  ヒヤリ、ハットした経験や体験というものはその瞬間が過ぎればすぐに忘れてしまいがちですが、これらの情報を蓄積する事で災害の防止に役立てなければなりません。

しかしこの法則に囚われてもいけません。災害が起こるときは予想もしなかった複雑な原因が絡み合っていることがあるからです。

あくまでも重大事故に繋がるという意識を持つ事が重要です。

 

たまに『ヒヤリハットの法則!』とドヤって言ってしまう人もおられますが、『ハインリッヒの法則』です。

 

  子供とはいくら言い聞かせても飛び出すものです。飛び出すなと叱るのも結構ですが、まず私達が変わり、気をつけて行こうではありませんか。そっちの方がきっと簡単なはずです。

 

飲んだら乗らない、煽らない、譲り合い精神で運転をする。たったこれだけの事です。

何も難しいことはないですよね。

 

 

 

 

 

人間という生き物は

なるがです。

 

  ゴールデンウイークの10連休、ついに始まりましたね。今朝テレビでネズミの国の混雑ぶりが流れておりましたが、同じサービス業としてあの光景はゾッとするものがありました。経営者側とすればいいぞもっとやれ的になるのですが、労働者側にとってはまさにヒィ状態なのは間違いありません(笑)

ウチもパート主体なものですからこの休みは当然人が集まらない訳です。かき集めても少ない。別の意味でヒィと言っております。こんな時の為にやはり猫を飼っておくべきでした。

10連休を謳歌出来るのは全体の2〜3割と誰ぞやが言ってましたが、その2〜3割に入りたい(笑)

 

どうでもいい前置きが長くなりました。

 僕は今、ランニングを始めており、ダイエット…否、締まった身体づくりを目指しております。夏までにプールでも恥ずかしくない肉体を作ります!(あ〜あ、言っちゃったよ)要は女性からよく見られたいだけなんですがね。しかしこのモチベーションは非常に大事でしょう!

前置きが終わらないではないかと突っ込みが入りそうなのでこの辺でやめときます。

 

  僕はスマホに「ランタスティック」という走りを計測してくれるアプリをインストールしているのですが、さっき「今すぐ走れ」と通知催促され走ってきました(笑)

 

  走りと言えば先日マラソン監督で有名な小出監督が亡くなられました。Qちゃんとの練習風景が強く印象に残ってますよね。そして小出監督と言えばその指導法が「褒めて伸ばす」と言った当時としては独特な指導法でした。

常に、イイね〜いいよ〜すごくいいね〜と言ってる。めちゃくちゃ肯定されてるのって普通に悪い気はしませんよね。

  思えば僕が若い頃は先輩や上司から褒めて貰う事など全くと言っていいほど無く、それどころか罵倒されまくりの毎日でした。因みに僕はQちゃんと同じ年代ですが、小出監督の様な先輩や上司は全くいませんでした(笑)

毎日やられると流石に自信を失くしますし、劣等感しか生まれて来ないのです。前向きになんてなれませんでした。この状況をどうしたら良くなるのか、どうしたら抜け出せるのかと悩む日々を過ごしていました。

  フォローすら無い時代だったので僕はとことんまで落ち込みましたし、悔しくて陰で泣いた事もありました。でも意外とメンタル強かったんですね僕は。めげなかった(笑)

 

  小出監督も昔はとても短気だったと聞きます。しかし1人の選手を潰し、自分の指導法が間違っていたと気付いてからは180度転換、褒める指導法に切り替えました。これは中々出来ることではありません。間違っていたと気付く事がまず何よりも凄い事だと思います。

  人間という生き物は褒められる事で、喜んだり、前向きになり成長する生き物だと思います。これは僕が身をもって体験したので間違いないでしょう。今パワハラ、スパルタ指導は少なくなって来ていますが、何故今までまかり通って来たのかと不思議に思います。

 思うに過去の軍隊からの風習が、ここ最近まで根付いて取れなかったのだと思います。絶対服従、上下関係、縦社会、連帯責任、恐怖支配、精神論、見せしめ。

日本陸軍においてこれらは顕著でした。兵士達が最も嫌がったのは、過酷な戦闘などより上官による私的制裁だったと言われています。逃れる為に脱走が頻繁に行われ、果ては自決(自殺)する事もありました。

  まさに僕のペーペー時代そのものです(笑)

戦争末期には士気を上げるため、竹槍を手に「米軍に勝つ為には気合いだ!オレはやるぞー!オー!」みたいなこともやってました。ブラック企業みたいですよね。

 

  かの有名な山本五十六の名言、

「やってみせ、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 」

「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

 

これを知った時の衝撃は表現できません。まさに当時の僕が救われた言葉でもあります。こんな考えの人もいたのだと。

 この名言が存在していたあの時代から今まで何故誰も用いようとしなかったのだろう。現代でも最近になってようやく評価されて来た感があるのですが。テレビでも小出監督の褒める指導法が素晴らしいと褒めまくっていました。

 でも結局これらの指導法は優しすぎるからなのでしょうか。僕が今まで見てきたのは、よりによってパワハラ指導者が評価されてきたという現実でした。恐怖政治によって結果を出しているようにも見えました。もちろん全部がそうではないですが。

この褒めて伸ばすという言葉だけが綺麗事の様に浮いて、その考えに同調している者など誰もいなかったように思います。OJTやいろいろなポジティブ研修みたいなものはありましたが、使いこなせている者、理解している者、使おうとしている者はいなかったです(僕含む笑)

これだけ持て囃しておきながら何故もっと早くパワハラ、スパルタ指導は淘汰されなかったのだろうか?

 

 サービス業という職種は超体育会系な面があります。酷いところはトップが法律のような雰囲気すらあります。しかし現在は違います。その時代は終わった。指導される側の感覚はすでに昔とは違うのです。世代が入れ替わってきたのだと実感します。

指導する側、つまり今の僕自身も日々試行錯誤しながら教えています。やはり一昔前とは全く違い、とても手強いです。それでも指導者というものは、どんな事をしてでも彼らを導いてやらなければならないのです。

 小出監督は良く耐えたなぁ。あの時代に自分を変える事は難しかったと思います。人間の本質を見抜いてすぐに行動するなど、誰でもできる事ではありません。しかも褒めて伸ばすを実行していたのですから。

これからの指導者の在り方、マネジャーとしての考え方、人材の育て方、もっともっと日々勉強していかねば……。

 

……などとランニングしながら考えておりました。この無心になれる時間はなかなかいいものです。汗をかいて、思考して、程よく疲れ、充実した時間を過ごす事ができました。

 

今日は2km走りました。

 

 

 

 

 

忖度

なるがです。

 

  池袋で親子が車にはねられ死亡した事故は何とも言えず、ただ無念としか言い様がありません。巻き込まれてしまった事件や事故はごまんとありますが、残された人たちは一体どうやってこの気持ちを持って行けばいいんでしょうか。運悪くなどで片付けられる問題ではないです。

  運転していたのは87歳の老人でした。この高齢者による交通事故は後を絶ちません。また高齢者か、またか。と何度も見てきています。

  似た様な事では児童虐待もそうです。これも散々繰り返してきました。これはやっとつい最近法律が制定されましたが、この高齢者による交通事故も同じようなもので、散々事故をやってきているのです。

  ところが目に見える改善がされていない。この際免許の返納も任意ではなく、義務にしたらいいと思います。何か問題があると?

  車が無いと生活出来ない様な場所ならともかく、人口の多い都会では事故のリスクも間違いなく跳ね上がります。そもそも都会は交通網がしっかり整備されているので、わざわざ自分で運転する必要など無いのです。しかし、高齢者による交通事故は場所など関係ありません。起きるべくして起きるのです。これは生活が不便どうこう言ってる場合では無いように思うのです。事故を起こし高齢での刑務所送りはどちらにしても悲しい。  

  厳格に規制する事でまず高齢者による事故を完全に無くす事が必要だと思うのです。その代わりにしっかりとサポート出来る仕組みを作る。これをするのが政治家の人たちです。(丸投げ)

  日曜日、選挙に行ってきましたが、訳の分からん政策なんかより、まず子供たちの命を守るための政策をもっと増やして欲しい。それがまず基本的な考え方だと僕は考えます。高齢者に優しくあるべきも分かります。ですがやっぱりどう考えても守るべきは子供、それを育てていく環境です。高齢者が敵になる世論は避けたい。もっと出来る事、例えば子供達との触れ合いなどは得意な分野なのではないでしょうか。適材適所ではないけれど、年齢に応じた生活圏内もあるのではと思います。

  話は事故に戻りますが、妻と小さな娘を急に失った夫の心境は計り知れないものがあります。自分に置き換え考えると、どうして?どうして?としか出てきません。こんなに悲しい事故は何が何でも無くさなければいけない。

  さて、ここからが本題なのですが、事故を起こした87歳男性に対しての報道です。僕も違和感を禁じ得ず、おかしいと思ったらやはり皆んなも同じことを思っていました。忖度の臭いがプンプンします。あれやこれやと言い訳にも似た論法で答えておりますが、

ここ忖度いらんだろ⁈ 人が死んでるねんで?

それでもこれだけは外せないって事か?

元ナントカ院とかホンマどうでもいい。ガンバレルーヤのよしこに「クソが!」と言ってもらいたいくらいだ。

失礼しました。

  こんなブログであまり感情は出したくありませんが、このメディアの対応にはガッカリさせられました。被害に遭われた人たちに寄り添っていない。とても冷たい報道に見えます。

いやいや、これはこういう理由があって、忖度などではない。と仰るなら敢えて言います。

「クソが!!」

またまた失礼致しました。