なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

8月15日終戦記念日に考える『死の現場』について

なるがです。

 

  今から74年前、昭和20年8月15日太平洋戦争が終結、日本の敗戦。これにより第二次世界大戦における全ての戦闘自体が終わった。この第二次世界大戦ではアジアが舞台の太平洋戦線、ヨーロッパ戦線も含めると未曾有の大戦争であり、とてつもない多くの人間が死んだ。この8月15日という日は日本が敗戦した日でもあり、世界戦争の完全な終戦日とも言える。

しかし15日以降にも戦闘の記録はある。沖縄や最期の特攻、少し特殊だが前回でも触れた南方での作戦を展開していた小野田少尉などである。彼らはただ命令に忠実なだけで、落とさなくても良い命を落としたのだ。

 

  今日の平和な時代、否、紛争は今でも世界各地で起きているが、戦後74年、日本は間違いなく平和な時代を送っていると言えよう。終戦直後の焦土と化したあの日本を見れば、現在の復興はまさに奇跡だ。しかし主要都市を全て焼き払われたあの惨状を、何十万という人が死んだ事実を、僕たちは本当に理解しているのであろうか。軍民合わせて310万人もの人がこの戦争で死んだのだが、9割が戦争末期に集中して亡くなっているのだ。死ななくても良い命がそれまでにたくさんあったのだ。

『あの戦争はいったい何だったのか?』この問いは未だに問われ続け終わりを迎えていない。

  そもそも何だったのかと問う事は意味のある事なのかと思ってしまう。この戦争は複雑過ぎて答えなぞ出てこない。この問い自体があまりにも綺麗事に聞こえるのだ。そもそも戦争を実際に体験していない自分たちは、戦争とはどんなものか、どれだけ悲惨なものなのかを絶対に知る事は出来ない。絶対にだ。これが決定的な違いだろう。戦争を直接味わった彼らはどれだけ痛みに苦しみながら、恐怖の中で無念に死んでいったのか。それこそ『この戦争はいったい何だったのか』と考えたに違いない。

 

  では、この戦争はいったい何だったのか?

8月15日前後には関連する番組や催しなどが増える。これはとても良い事だと思う。過去の出来事を知り、自分の目で見て平和の大切さを改めて知る。自分から興味を持つ、知る、考えるという事は大変有意義なことであり、戦争を知る上で欠かせない作業である。僕は歴史評論家でもないし、大学教授や研究員でもない。ただ興味があるというだけの人間である。

  その時何があったのか。今の時代、調べればそれを知る事は容易い。求めずとも情報は色んなところから入ってくる。しかしそれ以上の事を僕は知って貰いたいのだ。それ以上の事、つまり、テレビなどでは知る事が出来ない本当の話、実際に体験してきた人達の証言を、もっと聴いて貰いたい、知って貰いたい。

  大まかな局面のみを知るだけでは、この戦争の本質は理解出来ないし、知っているとは到底言えない。僕自身今でも貪欲に色んな事を調べている。

 

  話は逸れるが、祖父についてまた新たな情報を得た。

千葉連隊時代から牡丹江とずっと一緒だった戦友が居たとの事。

  昭和20年3月パラワン島へ米軍の上陸開始が始まった時(記録ではパラワン島上陸は2月28日)撤退するにあたり、「もし生き延びられたらここで落ち合おう」と言い合い砲爆の中を散り散りに逃げたという。

しかし祖父はその合流地点には結局現れなかった。

戦後、戦友は生きて帰還。その戦友から、もしかしたら内地の人になってるかもしれないと手紙が祖母の元に届いた。そして祖母がその戦友に会いに行き直接話を聞いてきたという事だ。すごく残念がっていたそうだ。

しかしその後すぐその戦友は亡くなり、連絡も取らなくなり名前すら分からなくなったとの事。戦後にあった大火により、祖父の写真や手紙やらいろんなものが焼失してしまったのだ。何という不幸に見舞われたのだろうか。これがなければ祖父に関する情報はもっとあったと思うと残念で仕方がない。

  しかしその状況を想像してみる事が出来た。まるでドラマのワンシーンのようだ。きっと必死にジャングルの中を走っていたに違いない。生きて日本に帰りたい、生きて戦友と会いたい、ただそれだけを考えていたと思う。

という事は死ぬまでは元気で行動する事が出来ていたという事も考えられる。

  僕の調べた内容(行軍中にマラリア脚気により病死)とは全く違う情報だが、今回聞いたこれもまたかなり真実味を帯びている内容だ。何と言っても祖父本人と直接接点のある人物からの情報である。

 

  だいぶ話が逸れてしまったが、どこまで話したっけ……。

 

つまり、戦争の本当の話を聴いて欲しいということだ。

  戦争とは一言で言うと『死の現場』である。一言にまとめるにはだいぶ横暴だと思うが、多種多様な『死の現場』を知る事は戦争を理解する重要な事項であるのは間違いない。

  戦争の時代を、過去を振り返るのと同時に『死の現場』も知らなければ、平和の願いも誓いも薄っぺらいものになってはいないだろうか。

 人がどうやって死んでいったか。

銃で撃たれて死んだ者、爆撃で内臓や脳味噌をぶちまけて死んだ者、火炎放射器で焼き殺された者、ジャングルでただ何も出来ず餓死していった者、発狂して死んだ者、空襲による火災に巻き込まれ苦しみながら死んだ者、原爆という殺戮兵器により一瞬で蒸発、ドロドロに流れる皮膚、地獄のような光景…。

少し視点は違えども、自決、自殺、特攻、玉砕これらもまた死の現場である。自らが進んで死に行く心境、彼らは死ぬ瞬間に何を思ったのであろうか。平和な、戦争のない時代になって欲しいと願ったのであろうか。バンザイと叫びながら突撃していった彼らは、死ぬと覚悟して走り出した瞬間は、どんな気持ちだったのだろうか。生き残りの証言者に当時の現場を聞くと、殆どの方が涙を流される。本当にひどい、辛い記憶がよみがえるのだろう。それらは絶対に僕らには分からない事なのである。

すなわち、ここに全ての答えが詰まっているのである。戦争は絶対にしてはいけないと皆さん仰られる。人が死ぬ事、そして理不尽に死んで行ったこと。人間が人間でなくなる、数え切れない死の現場を見てきた彼らがただ一つ思うこと、それは『もう人が死ぬのを見たくない』事なのではないか。彼らの証言を見たり聞いたりしているとそう思うのである。すごくシンプルである。

だから僕は『死の現場』についてもっと考え、知る必要があるし、そこから学べることも沢山あるのだ。人によって戦争への理解の仕方、平和を願う気持ちは違う。それはそれで良いのだ。

  ただ僕は、死んでいった全ての人たちの本当の声を聞いてみたい。彼らが何を思って、伝えたかったのか、『死の現場』から分かるような気がするのだ。

  これは日本だけではない。ヨーロッパでも沢山の『死の現場』があった。ガス室の代名詞とも言えるアウシュビッツスターリングラード攻防戦など。この第二次世界大戦では5000万から8000万の人が死んだという。その中でもソビエトがダントツで多く、2600万人というとんでもない数である。多過ぎてピンとこない数値だ。

  戦争があったのは日本だけではない。8月15日は世界の全ての戦闘が終わった日でもあるのだ。しかし戦争の舞台となり、被害を受けた国や民間人たちの犠牲も忘れてはならない。

  平和を知るために戦争を知る。戦争の死の現場に目を向けて、初めて戦争を知り、平和を知るのである。