なるがままにされよう

アラフォーおっさんが好き放題書く雑記ブログ

今日は12月11日だけど、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃について簡単に書いてみる 

なるがです。

 

今から76年前の昭和16年12月8日(ハワイ時間12月7日)、日本海軍機動部隊によるハワイ真珠湾の米太平洋艦隊及び基地施設への奇襲攻撃がありました。

太平洋戦争の勃発です。

「真珠湾攻撃」の画像検索結果

 

終戦日の昭和20年8月15日は良く知られていても、開戦日の12月8日はあまり知られてないのではないかと思います。泥沼の戦争に足を踏み入れる事になった、日本人なら忘れてはならない記憶すべき日でもあります。

戦争が終わってみれば、何も残っていませんでした。都市という都市は焼き尽くされ焦土と化し、軍民合わせて310万人もの人が亡くなったのです。

310万人というと日本の人口第11位、茨城県の約290万人に匹敵します。富山・石川・福井の北陸3県合わせてもまだ足りない数字です。それ位とんでもなく人が亡くなったのです。そして僕の祖父もその中の一人です。フィリピンにおいて34歳で戦死しています。

今回はその戦争の始まりとなった真珠湾攻撃について簡単に書いてみようと思います。

 

なぜ真珠湾を攻撃したのか

 当時の日本は中国と戦争をしていました。日中戦争です。満州国の建設など中国大陸への勢力拡大を行っていた日本に対し、アメリカは強く警戒していました。

日本にとって満州は日清、日露戦争によって獲得した生命線でもあります。気に入らないアメリカは日本側に意見します。

 

米:「中国から手を引きなはれ」

日:「無理だね」

 

日本の近衛文麿内閣と、アメリカのルーズベルト大統領は昭和16年4月から戦争回避のための日米交渉をずっと行っていましたが、このようにお互い意見が対立していました。

こんな時にやばい行動を取る人物が出てきます。東条英機陸軍大臣です。

6月ヨーロッパでのドイツ・ソ連の戦争開始を見て、交渉ではなく武力での行動を起こすべきと主張し、7月にはベトナム南部に軍を進駐します。

この交渉中の軍事行動に当然アメリカは怒ります。

8月 米:「石油止めたるからな」

 

10月 東条英機が首相・陸軍大臣内大臣を兼ね、政治・戦争・軍務等すべての実権を握るという独裁体制を築きます。そして、

11月末までに日米交渉がまとまらなければ、アメリカとの戦争もやむなしと決定します。

 

この時点でもうかなりヤバくなっています。

 

11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉の最終提案をまとめたハル・ノートを提示します。

この内容に納得いかなかった日本政府は、

「じゃあアメリカと戦争してしまえ」

こうして日本はアメリカと戦争することになって行ったのです。中国とも戦争中でしたので、当時の指導者層の無茶振りが伺えます。

 

 

ニイタカヤマノボレ一二〇八

昭和16年12月2日、大本営より『ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ』の暗号電文。

12月8日午前0時をもって戦闘行動を開始せよとの意味です。

この時まだ交渉中の為、戦争回避、攻撃中止の場合は『トネガワクダレ』だったそうです。

これ以前に攻撃は決まっていたため、『ハル・ノート』が提示されたその日には、機動部隊は密かにハワイ北方400kmの海域へ向けて出港していたのです。

国力に劣る日本が優勢に立つには、奇襲による攻撃により相手を壊滅させ、早期講和に持ち込みたいと考えていました。

なので攻撃開始は「宣戦布告と同時」という予定となりました。例えるならヒットエンドランみたいなものです。バッターが打った時にはすでに走者は二塁到達間近という具合ですね。

 

 

奇襲とは言えなかなかなやり方です。しかし、予定はやはり予定であって、作戦自体は成功しますが、そううまく事が運ぶとも限らないのが運命というものです。

日本大使館の職務怠慢により開戦通告が遅れ、アメリカ側に届いたのが攻撃から1時間後となってしまったのです。

これがかの有名な『リメンバー・パールハーバーとなるわけです。

 

ハーグ第三条約に定められている「戦争開始には、明らかな事前通告が必要」を無視したと、アメリカは大激怒。

事あるごとに『卑怯者』『だまし討ち』などと言われています。つい最近もトランプ大統領がこのことについて『邪悪な急襲』と言ってましたね。

それほどアメリカ国民はこの奇襲攻撃の事を根深く持っているのです。

 

日本側も決して条約を無視した訳ではなく、ギリギリのラインでやりくりしていた事が致命傷に繋がってしまったのです。

初戦で戦意をくじくどころか、逆に戦意を高揚させてしまったとは皮肉なものです。

 

ルーズベルトの勝利に貢献?真珠湾攻撃

ヨーロッパで世界大戦が始まり、ルーズベルトはイギリスを支援すると決意していましたが、国内ではヨーロッパの戦争に関わりたくないとの意見が大半でした。

戦争に引きずり込むルーズベルトとして、共和党からは非難の嵐でした。仕方なく『アメリカが攻撃されない限り若者を戦場へは送らない』と公約せざるを得ませんでした。

しかし、この真珠湾攻撃によってアメリカ全国民に『真珠湾を忘れるな!』の名のもと正義の戦いを訴え、支持を確固のものとし3選を果たします。

これで大義名分を得たルーズベルトは心置きなくイギリスを支援、ヨーロッパ戦線にも軍を送り出して行く事になります。

イギリス首相チャーチルは、『これで勝てる!』と確信し、その夜はぐっすり眠れたと『第二次大戦回顧録』に書いています。

 ルーズベルトにとっても、チャーチルにとっても真珠湾攻撃は都合が良かったのです。

 

日本陸海軍による侵攻

日米開戦が真珠湾攻撃によってだと言われてますが、実は陸軍が先にマレー半島のコタバルに奇襲上陸、目標のシンガポールへ向けて攻撃を開始しています。

この進攻が海軍より早かったため、こちらに注目されがちとなり、ハワイ真珠湾の米基地にまさか攻撃があるなど思いも寄らなかったとも言われています。

真珠湾奇襲!これは演習にあらず!!』

こう電報を受けたノックス海軍長官は「こんなことはありえない!これはフィリピンのことだ!」と言ったそうです。

 

真珠湾攻撃最後通牒の遅れにより不意打ちという形となりましたが、作戦に参加している兵士達は知るはずもありません。日本時間午前3時20分(ハワイ時間午前7時50分)第一次攻撃隊が真珠湾上空に到達します。360機の航空機をもって予定通り第1次、第2次と攻撃を加えました。そしてこれも有名な『トラトラトラ:我奇襲ニ成功セリ』を打電します。

奇襲は陸軍・海軍共に大戦果を挙げ、日本は歓喜に沸きます。

 この攻撃によるアメリカ側の犠牲者は2000人以上とされています。

 

しかしこの華々しい進撃も、当初の想定通り半年後に局面は劣勢となり、次第に国力の差を見せつけられて行くことになります。

 

この真珠湾の出来事ひとつとっても、深く深くたくさんの出来事が絡んでいます。まったく多すぎて伝えられません!そして戦争に至った過程を知ることで、点がつながり全体像が見えてきました。いろんな違う視点からこの真珠湾攻撃を見てみるのも面白いと思います。

 しかし全然簡単にまとまってないし、出遅れ感丸出しな記事になってしまいました(笑)

 

ではでは。