なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

今日は12月11日だけど、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃について簡単に書いてみる 2023追記あり

なるがです。

 

今から76年前の昭和16年12月8日(ハワイ時間12月7日)、日本海軍機動部隊によるハワイ真珠湾の米太平洋艦隊及び基地施設への奇襲攻撃がありました。

太平洋戦争の勃発です。

「真珠湾攻撃」の画像検索結果

 

終戦日の昭和20年8月15日は良く知られていても、開戦日の12月8日はあまり知られてないのではないかと思います。泥沼の戦争に足を踏み入れる事になった、日本人なら忘れてはならない記憶すべき日でもあります。

戦争が終わってみれば、何も残っていませんでした。都市という都市は焼き尽くされ焦土と化し、軍民合わせて310万人もの人が亡くなったのです。

310万人というと日本の人口第11位、茨城県の約290万人に匹敵します。富山・石川・福井の北陸3県合わせてもまだ足りない数字です。それ位とんでもなく人が亡くなったのです。そして僕の祖父もその中の一人です。フィリピンにおいて34歳で戦死しています。

今回はその戦争の始まりとなった真珠湾攻撃について簡単に書いてみようと思います。

 

なぜ真珠湾を攻撃したのか

 当時の日本は中国と戦争をしていました。日中戦争です。満州国の建設など中国大陸への勢力拡大を行っていた日本に対し、アメリカは強く警戒していました。

日本にとって満州は日清、日露戦争によって獲得した生命線でもあります。気に入らないアメリカは日本側に意見します。

 

米:「中国から手を引きなはれ」

日:「無理だね」

 

日本の近衛文麿内閣と、アメリカのルーズベルト大統領は昭和16年4月から戦争回避のための日米交渉をずっと行っていましたが、このようにお互い意見が対立していました。

こんな時にやばい行動を取る人物が出てきます。東条英機陸軍大臣です。

6月ヨーロッパでのドイツ・ソ連の戦争開始を見て、交渉ではなく武力での行動を起こすべきと主張し、7月にはベトナム南部に軍を進駐します。

この交渉中の軍事行動に当然アメリカは怒ります。

8月 米:「石油止めたるからな」

 

10月 東条英機が首相・陸軍大臣内大臣を兼ね、政治・戦争・軍務等すべての実権を握るという独裁体制を築きます。そして、

11月末までに日米交渉がまとまらなければ、アメリカとの戦争もやむなしと決定します。

 

この時点でもうかなりヤバくなっています。

 

11月26日アメリ国務長官ハルは、日米交渉の最終提案をまとめたハル・ノートを提示します。

この内容に納得いかなかった日本政府は、

「じゃあアメリカと戦争してしまえ」

こうして日本はアメリカと戦争することになって行ったのです。中国とも戦争中でしたので、当時の指導者層の無茶振りが伺えます。

 

 

ニイタカヤマノボレ一二〇八

昭和16年12月2日、大本営より『ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ』の暗号電文。

12月8日午前0時をもって戦闘行動を開始せよとの意味です。

この時まだ交渉中の為、戦争回避、攻撃中止の場合は『トネガワクダレ』だったそうです。

これ以前に攻撃は決まっていたため、『ハル・ノート』が提示されたその日には、機動部隊は密かにハワイ北方400kmの海域へ向けて出港していたのです。

国力に劣る日本が優勢に立つには、奇襲による攻撃により相手を壊滅させ、早期講和に持ち込みたいと考えていました。

なので攻撃開始は「宣戦布告と同時」という予定となりました。例えるならヒットエンドランみたいなものです。バッターが打った時にはすでに走者は二塁到達間近という具合ですね。

 

 

奇襲とは言えなかなかなやり方です。しかし、予定はやはり予定であって、作戦自体は成功しますが、そううまく事が運ぶとも限らないのが運命というものです。

日本大使館の職務怠慢により開戦通告が遅れ、アメリカ側に届いたのが攻撃から1時間後となってしまったのです。

これがかの有名な『リメンバー・パールハーバーとなるわけです。

 

ハーグ第三条約に定められている「戦争開始には、明らかな事前通告が必要」を無視したと、アメリカは大激怒。

事あるごとに『卑怯者』『だまし討ち』などと言われています。つい最近もトランプ大統領がこのことについて『邪悪な急襲』と言ってましたね。

それほどアメリカ国民はこの奇襲攻撃の事を根深く持っているのです。

 

日本側も決して条約を無視した訳ではなく、ギリギリのラインでやりくりしていた事が致命傷に繋がってしまったのです。

初戦で戦意をくじくどころか、逆に戦意を高揚させてしまったとは皮肉なものです。

 

ルーズベルトの勝利に貢献?真珠湾攻撃

ヨーロッパで世界大戦が始まり、ルーズベルトはイギリスを支援すると決意していましたが、国内ではヨーロッパの戦争に関わりたくないとの意見が大半でした。

戦争に引きずり込むルーズベルトとして、共和党からは非難の嵐でした。仕方なく『アメリカが攻撃されない限り若者を戦場へは送らない』と公約せざるを得ませんでした。

しかし、この真珠湾攻撃によってアメリカ全国民に『真珠湾を忘れるな!』の名のもと正義の戦いを訴え、支持を確固のものとし3選を果たします。

これで大義名分を得たルーズベルトは心置きなくイギリスを支援、ヨーロッパ戦線にも軍を送り出して行く事になります。

イギリス首相チャーチルは、『これで勝てる!』と確信し、その夜はぐっすり眠れたと『第二次大戦回顧録』に書いています。

 ルーズベルトにとっても、チャーチルにとっても真珠湾攻撃は都合が良かったのです。

 

日本陸海軍による侵攻

日米開戦が真珠湾攻撃によってだと言われてますが、実は陸軍が先にマレー半島のコタバルに奇襲上陸、目標のシンガポールへ向けて攻撃を開始しています。

この進攻が海軍より早かったため、こちらに注目されがちとなり、ハワイ真珠湾の米基地にまさか攻撃があるなど思いも寄らなかったとも言われています。

真珠湾奇襲!これは演習にあらず!!』

こう電報を受けたノックス海軍長官は「こんなことはありえない!これはフィリピンのことだ!」と言ったそうです。

 

真珠湾攻撃最後通牒の遅れにより不意打ちという形となりましたが、作戦に参加している兵士達は知るはずもありません。日本時間午前3時20分(ハワイ時間午前7時50分)第一次攻撃隊が真珠湾上空に到達します。360機の航空機をもって予定通り第1次、第2次と攻撃を加えました。そしてこれも有名な『トラトラトラ:我奇襲ニ成功セリ』を打電します。

奇襲は陸軍・海軍共に大戦果を挙げ、日本は歓喜に沸きます。

 この攻撃によるアメリカ側の犠牲者は2000人以上とされています。

 

しかしこの華々しい進撃も、当初の想定通り半年後に局面は劣勢となり、次第に国力の差を見せつけられて行くことになります。

 

この真珠湾の出来事ひとつとっても、深く深くたくさんの出来事が絡んでいます。まったく多すぎて伝えられません!そして戦争に至った過程を知ることで、点がつながり全体像が見えてきました。いろんな違う視点からこの真珠湾攻撃を見てみるのも面白いと思います。

 しかし全然簡単にまとまってないし、出遅れ感丸出しな記事になってしまいました(笑)

 

ではでは。

 

 

……時は過ぎ、2023年に追記することになろうとは思いもしませんでした。

この記事の中で真珠湾攻撃について、開戦へと向かっていった事について書いてましたが、大まかなところでは合っているものの、実際に教えられている事実はとんでもなく違う事だと知りました。いえ、僕が得ていた情報を只々鵜吞みにして来たというだけで、知っている人は知っていたのです。これには驚きを隠せません。一体今までの僕の認識は何だったんだろう⁈ いえ、上にも書いてますが自分で調べたつもりだった事が実は全然調べられていなくて鵜呑みにして来たこと、言われた事をそのまま理解して満足していたという事です。しかも気付くのが遅すぎです。

 

 太平洋戦争、まずここから訂正しなければなりません。これは「大東亜戦争」です。GHQによりこの名称は使うな、という事で禁止されました。

昭和16年12月12日に東條内閣がこう呼ぶと決めた大東亜戦争は、

『欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す』

という理念と構想を持っていました。これは欧米の植民地搾取支配ではなく、これらを独立させ一緒に経済圏を作っていく『八紘一宇』という目的を持っていました。簡単に言えば地球に住む色んな民族が家族のように仲良く暮らす事、つまり世界平和です。当時のアジア情勢を知っていると思いますが、タイを除くすべての国が欧米によって支配されていました。この戦争の目的は日本の自存自衛の戦争でありながらアジア諸国の独立と解放も担っていたのです。戦後GHQがこう呼ばせたくないのも分かります。

 そして今ではほとんどの国民がそう思っているであろう、『真珠湾奇襲は日本の不意打ち』これも間違いでした。

これを理解するには満州事変まで遡り事実を調べる必要があります。正確にはアヘン戦争までですがめんどくさいし、だれも興味ないと思うので割愛します。要はアヘンの利益にはイギリスと共にルーズベルトも絡んでいました。細かいところまで突き詰めるとこういう事も関係していたのです。

また、中国国民党軍の義勇兵としてフライングタイガースという航空部隊がすでに日本軍と戦闘していた事、イギリス・アメリカからの多額の支援金、武器供与が行われていた事。これだけでも立派な戦争行為です。

日本が不意打ちで始めた太平洋戦争などというのは大嘘もいいところ、4か月前にはフライングタイガースによる日本爆撃の計画もされていました。しかし真珠湾が始まってしまったためこの計画は頓挫しました。元々イギリス・アメリカは日本を仮想敵国と見ており、海軍軍縮条約やらで締め付けを行ってきました。

アメリカは昭和15年夏の時点で暗号を解読しており日本軍の情報はすべて筒抜けになっていました。この事実はアメリカ自身が公開しています。

そして第一撃は何としても日本に加えさせるというものでした。ヨーロッパへの参戦を後押しさせたいルーズベルトは暗号解読していながらこれを黙認。そして不意打ちした日本は許すまじ!となったのです。そうなるとアメリカ国民の団結は一気に加速します。チャーチルとの目論見はこれで達成されました。日本はまんまと策にかかったのです。

 

 日清・日露戦争により獲得した朝鮮・満州も、関東軍の侵略・暴走として伝えられていますが、当時朝鮮は清国の属国、下関条約では朝鮮の独立を認めるとありますし、満州国に至っては戦乱・混乱状態に置かれていた住民を安心できる土地として日本が建国したのです。要職は関東軍が独占掌握していた、とありますが実際は日本からインフラ整備、教育等のための人材を送り込み満州人に教えていただけに過ぎません。

だいぶ端折って説明していますが、要は満州国建国は日本の自衛だったという事です。これも絶対に表には出てきません。

 

 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、その後教科書にも出てくるABCD包囲網で日本は資産凍結、石油の輸出を止められます。これが続けば資源の無い日本はじきに国力が衰えていきます。衰えたところを欧米列強が日本を獲る。容易いことです。そうして東アジアの国々を植民地化してきた欧米に敢然と立ち向かったのが日本なのです。

いえ、日本だけ、なのです。

自国を侵略から守るため、やむなく日米開戦に踏み切らざるを得なかったのです。外交による回避も試みられましたが、米側は却下、代わりに提示してきたのがハル・ノートでした。もうこれは日本を戦争に引きずり込むための嫌がらせでしかありません。何せこれまで日本が行ってきた事のほとんどを放棄・拒否しているものだったからです。

 当初日本の戦略は『南進して西へ行く』だったのですが、そうはならなかったと東条英機は言っています。彼もまた最後まで戦争回避しようとした一人でした。これも極悪人として伝わっていますが実際は違いました。

 ハワイにおいて諜報活動を行っていた吉川猛夫の存在もすでにバレており、真珠湾停泊中の艦船の位置等の連絡もかぎつけていました。攻撃当日、何故か空母だけがいなかった、旧式艦船ばかりだった事などは、まさに攻撃があると分かっていてあらかじめ避難していたのです。

アメリカは東京から米大使館に送られた最後通告の電文も解読し、それを読み終えたルーズベルトはひと安心したといいます。遅れた最後通牒を渡されたハルの憤慨もこれを知った後なら『クソ茶番ファッ〇ン猿芝居』です。

これは味方を騙し裏切り、見殺しにしたのです。これでアメリカ参戦の口実は出来た。リメンバーパールハーバー、参戦の口実が実は出来レースだった!啞然です。そして日本に突き付けたハル・ノートは、なんと自国民には開示していないというではないですか。これが何を意味するかは言わずもがな。卑怯な手です。

 

 これらは『ルーズベルト陰謀論』『真珠湾陰謀論』として以前から取り上げられていました。しかし私達日本人の認識はどうでしょう?不意打ち日本軍最低、軍首脳は低能、無謀な戦争をしたバカ……。でも事実は違いました。日本を植民地にさせないため、アジアで唯一独立国だった日本が、有色人種の誇りをかけて欧米列強に敢然と立ち向かった。

戦争には負けたけど、植民地だったアジアを解放し、たくさんの犠牲は出ましたがすべての国をこの戦争によって独立へと導いたのは事実です。

 

これを、陰謀論にやられたアタオカ必死乙とお思いでしょう。でも違います。

1990年代後半の米機密文書の一部公開により、ルーズベルトは日本の行動を全て知っていた事が判明しています。

真珠湾攻撃に関しては65年、JFK暗殺については現在100年の機密保持だそう。それくらい経てば事実を話す人間もこの世にはいないだろうという事なのでしょう。

 

リメンバーパールハーバーは今では日本人の言葉ですよ。

ではまた。