なるがです。
気付けば日の出時間も随分早くなり、朝の6時でもすっかり明るくなりましたね。まだ少し肌寒いですが、日中はポカポカと暖かく心地よいお日様と、上着が薄くなっている事に、新しい季節の訪れを感じさせてくれます。
新しい季節と言えば、やはり『春』が私たちの中のイメージとして定着しています。そして何故か切ない日々である事も感覚として実感できます。それはこの季節の中に、『別れ』と『新たな旅立ち』が混在している所にあるからだと思うのです。
例えば『卒業』と『入学』という誰もが通る分かりやすい体験が、春というこの季節を切なくさせているのです(たぶん)。河原の道を、自転車で、走る彼女を執拗に追いかけた記憶はありませんが、その時いつも傍にあったものは、間違いなく満開の桜であり、散りゆく桜でした。
古くから桜は我々日本人に愛されてきました。僕も桜は大好きです。満開の桜や、夜桜等、思わず見とれてしまうほどの花は桜以外に知りません。(知らないだけです)
これほどまで愛される『桜』は常に多くのアーティスト達に頻繁に取り上げられています。音楽業界では「桜ソング」なるジャンルも確立されて久しくありません。その桜ソングもやっぱり歌詞や曲調は切ないものが多いですね。だけど悲しい感じではなく、美しい思い出の様な、凛とした空気感を持っています。
その中でもやはり僕の一番のお気に入りは、森山直太朗『さくら(独唱)』です。
これはメロディもさることながら、声も、そして歌詞が見事としか言いようがありません。どんな歌詞なのかは自分で勝手に調べて下さい。(言い方)
この曲を初めて聴いた時から、僕はこの歌詞が、戦争で亡くなった人たちの事を歌っていると思っていました。しかもそれは『特別攻撃隊』にスポットを当てているのでは、と思うのです。
『特別攻撃隊』とは、特別な攻撃を行う隊の事です。いつもとは違う攻撃、すなわち、通常ではない攻撃、いわゆる特別な攻撃を行うことです。故にその特別な攻撃を行う隊員達のことを特別攻撃隊と呼び、特別な攻撃をする隊、それが『特別攻撃隊』なのです。
爆弾を搭載した飛行機で敵艦めがけ、飛行機もろとも体当たりする、帰還を前提としない十死零生の攻撃、今では知らない人はいないであろう、泣く子も黙る『特攻』の事です。(ここでは航空特攻についてのみ言及します)
この特別攻撃隊の第一陣が、カミカゼで有名な『神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい)』であり、『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』の4つの部隊に分かれておりました。部隊名の元になったのが、本居宣長(1730-1801)が詠んだ『敷島の歌』です。
「敷島の 大和心を人問わば 朝日ににおう 山桜花」
(大和心とは何かと人が尋ねるなら、朝日に照って輝く山桜の花であると答えよう。)
日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。(本居宣長記念館HPより)
まさに日本の心そのもの。(の様な気がする)納得ですよね。納得。
桜が美しいとは日本人のDNAに刻み込まれているのかもしれません。いえ、きっと刻み込まれているのです。
『桜』という漢字も、とてもやはらかな印象を受けます。「女」という字が使われているからでしょうか、女性をイメージさせ、花の特徴とも相まって、だけど強く主張もせず、優しく見守ってくれている様な、そんな雰囲気を感じさせます。それは…「お母さん」…か?
とか言ってると『お母さん食堂』のように『桜』も、とばっちりを受けそうなのでこれ以上の深入りはやめておきます(笑)
この様に、アメリカ人は切り離しましたが(このワシントンの逸話は実はフェイクらしいです)、日本人と桜は切っても切り離せないものなのです。
戦前の1912年には、日米の友好関係を深める目的で、日本から桜の木が寄贈されています。今でも『全米桜祭り』としてワシントンD.C.で毎年春に行われています。互いに戦争した2国ですが、日本とアメリカも実は桜で繋がっていたんですね。
話を少し遡り、『さくら独唱』と『特別攻撃隊』まで戻します。
前述の通り、この歌は特攻隊の事を歌っていると書きましたが、当然歌などは人によっていろんな解釈ができるものです。(直太朗氏は友人の結婚をきっかけに作ったと言ってます)
特攻隊の事を知らない人は僕の様な解釈にはならないだろうし、知っている人は同じ解釈をしているかもしれません(実際にそういう声は多い)
しかし直太朗氏のオカン…失礼、母上殿はあの森山良子氏です。沖縄戦を歌ったDNAが息子に宿っていても不思議ではありません。
僕は過去に『知覧特攻平和会館』へ足を運んだ事があります。そこには若くして散った若櫻の遺書・遺品・遺影などが展示してあります。皆20歳そこそこの活きのいい青年たちでした。中には18歳という若さで特攻した隊員もいます。
ここで詳しく説明すると恐ろしく時間がかかってしまいますので、いつものように割愛させて頂きます。興味のある方は自分で勝手に調べて満足したらいいです。(言い方)
特にこの知覧の特攻隊員達のエピソードに『さくら独唱』がぴったりくるんですよ。
特攻が行われたのもちょうどこの頃、桜が満開の季節でした。
出撃を見送る知覧女学生「なでしこ隊」
そして戦争も末期となった1945年3月、新たな特攻兵器が初陣を迎えていました。
『桜花』
既存の航空機に爆弾を積んで体当たりさせるのではなく、初めから特攻を目的として新たに設計・開発された兵器です。推進はロケットエンジン、その噴射時間はわずか9秒。全体の80パーセントが火薬というものであり、有人である事を除けば現代の対艦ミサイルの先駆けともいえるものです。
このように母機(一式陸攻)に吊るされて、目標近くで切り離されます。
桜花部隊は『神雷特別攻撃隊』と呼ばれ出撃しましたが、初陣で18機全機が母機もろとも撃墜されました。
その後の出撃では一機が米駆逐艦に命中、艦が真っ二つに折れるという凄まじい威力を見せつけましたが、実際は本命の空母まで到達する事が難しく、期待する戦果は上げられなかったようです。
『桜花』についてもっと詳しく知りたい!という方の為に、少し解説を挟みたいと思いますが、めんどくさいのでwikiさんに聞いてみてください。
しかしほんの70数年前にこんな事が普通に行われていたなんて信じられますか?否、普通ではないのは分かっていたと思うのです。
特攻隊員達もちょうど高校を卒業、また、大学生活を満喫している歳の頃です。今の同世代と比較する事はナンセンスですが、今の若者たちは彼らを、いったいどう捉えるのだろうか。
春になり桜が満開になると僕は彼らを思い浮かべます。彼らもこの満開の桜を、ただただ見たかっただろうなと思うからです。この世を卒業して、もう二度と入学する事は出来なくとも、想像の中であふれる若い力は、桜の木の下で友と楽しく語り合い、はしゃいでいたに違いありません。
桜を見て、あぁ美しいなぁと思う事は当時の彼らにもあったでしょう。そして散りゆく桜花に自分を重ねてもいたでしょう。その心境は如何に。本当の心は分かりません。今から自分は死にゆくというのに、笑顔と感謝を遺して逝ったそうです。
彼らの心を知るためには、彼らの遺したものを読むしかありません。
戦争を、特攻を美化するつもりは毛頭ありませんし、それを理論立てて言うのはこの場では野暮でしかありません。ただ僕は今、この桜の季節にこそ、彼らの事を書くべきだと思っていましたし、ようやく書けた、と思っているところでもあります。ですが特攻そのものについてはまだまだ書き足りません。
知覧鎮魂の賦
僕が桜に抱くイメージは日本であり、若くして散った彼ら勇士達です。自分の大切なひとを守るために、短い命を惜しげもなく捧げた彼らに対しては敬服の念に堪えません。
またこの季節がやって来たんだなぁ。桜は相変わらずきれいですよ。
てことは、次に特攻の記事を書くとしたら来年の今頃か、再来年になるんでしょうかね。