なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

終戦75年目の8月15日に思う事

なるがです。

 

 日本人として忘れてはならない日が4つあります。

1.6月23日 沖縄戦終結

2.8月6日 広島原爆投下

3.8月9日 長崎原爆投下

4.8月15日 終戦

 

何故この4つが忘れてはならないかについてはここでは書きません。

本題の4つ目、終戦日の8月15日は15年戦争とも呼ばれる1931年の満州事変から1945年の第二次世界大戦終結の日でもあります。(または降伏文書調印式の9月2日)

 

 戦争を知らない世代には『戦争=太平洋戦争』と思われがちですが、1937年には日中戦争も始まっており、日本はそれ以前から中国に向けて軍隊を動かしています。泥沼の戦争へと本格的に突入していった時代でした。

 終戦から75年が経ったと言ってもほとんどの人は実感がないでしょう。僕もその一人ですが、こうして戦争について書いているので知らない世代の中でも幾分かは理解しているつもりです。

しかしこの15年という年月の間に起きた事を紐解いていく作業はとても大変です。余りにも膨大な量のため整理が付けられないほどです。そして膨大な数の人間が死んだことを知ります。

 

 終戦の日には毎回祖父の事を考えます。永遠に知る事はないのですが、いったいどんな人だったんだろうか?と。終戦の5か月前に戦死という事ですが、遺骨も無ければどこでどうやって死んだかも知りません。そして同じように、夫を亡くした祖母や、父親を亡くした子供ら(今の父)はあの時代をどう生きて来たのかと思いを馳せるのです。

祖母から直接聞きとりもしたのですが、今思えばもっと詳しく話を聞いておくべきだったと後悔しています。

 

 戦争の証言者も当然減少しており、実際に戦争を体験した人を見つける事も困難となりつつあります。この『証言』こそ、今の私たちが知らなければならない事だと思うのです。テレビや教科書では知り得る事のない本当の話。

 

原爆が落とされた事は知っていても、その下で起こっていた惨劇を自ら知ろうとする人は少ない。沖縄で集団自決があった事は知っていても、家族が家族をどうやって殺したか、それを生き延びた者の苦しみは如何ほどのものだったかは知らない。

自分に置き換えて考えてみればそれがどんなに辛く苦しい事だったのかが分かる。否、分からない。絶対に今の私達には理解など出来ようはずもない。

そんな事が当たり前のように起こるのが戦争であり、当然経験していない私らには分かるはずがないのである。戦争が起こればどこかで人が死に、どこかで悲しみ、苦しむ人が生まれるだけなのです。

 

戦争を知るには生の声を聴き、知る事。即ち『証言』です。

歴史は歴史として学び、その中の出来事を証言とリンクさせていく。少しづつ紐解いていくのです。取っ掛かりは何でもいいのです。原爆ドームを見てヒロシマナガサキを知り、原子爆弾を知り、その脅威を知り、世界が脅威の中にある事を知る。

日本が何故戦争に向かっていったのか、ここまでなるまで何とか出来なかったのか、何故こんなにもたくさんの人が、若者たちが死ななければならなかったのか。

 

これも紐解けばたくさんの場面で止める事が出来たポイントがあったのだと知る事が出来ます。軍部の暴走による2.26事件や国際連盟の脱退など、戦争を回避できたポイントは紐解くことで色々見えてくる。そして、この戦争において亡くなった人の何と9割が1944年末頃から集中している事実に直面します。

戦争を回避できなかったその代償が、軍民合わせて約310万人という尊い命です。

 

 もっともっとたくさんの命が助かったはずだし、じーちゃんも生きて帰れたかもしれない。日本もここまでボロボロにならずに済んだかもしれない。まぁ、タラレバの類は今更やるべきではないし、そうなると僕自身も生まれてないかもしれませんしね。

 

これからの私達に出来る事は、今起こっている事をちゃんと知り、何が何でも戦争を回避するための取り組みを行っていく事だと思うのです。今は発言が許されなかった時代とは違います。あんな馬鹿な戦争をおっ始めた参謀達、即ち国家権力者に対し私たちは絶対に戦争をしないと強く意思表示していく事なのです。

 

 

 さて、終戦で思うのは戦時中の出来事もそうですが、今一番知りたいのは終戦直後の日本がどうだったか、です。今まで戦争の中身にばかり目が行っていましたが、終戦とは日本が占領される事でもあり、人がもう死ななくて良い事でもあるのです。

 当時の人々はこれをどう捉えていたのか。

終戦を知らされず樺太で7日間ソ連軍と戦闘があった事はあまり知られていません。この時約5000人の犠牲者が出ています)

 

 当時の写真や映像等を見ると新たな発見が出来ます。アメリカ軍の上陸に始まり、占領されるとはどういうことなのかが分かります。武装解除され瓦礫となっていく兵器の山が悲しくも見えると同時に、戦争はもう終わったのだとの安堵感、静けさみたいなものも伝わってきます。不思議と辛い占領のイメージは感じませんでした。

終戦直後の映像や写真に写る人々の顔は暗い顔もありますが、心なしか笑っている顔が多い様にも感じます。

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焼け野原となった何もないこの場所においても、子供たちは笑顔で明るいし、やはり人々が安心感で満たされている様に見えるのです。終戦とは戦いが終わっただけではなく、人々の笑顔が再び戻った日でもあったのです。

 

しかし現実はそうでない人々がほとんどで、空襲で親を失った子供、息子を亡くした親、夫を亡くした妻、また戦地で大けがを負ったりトラウマに悩まされる人々が大勢いました。祖母も確かにそうでした。さらに中国からの引き上げ逃避行、シベリア抑留など、終戦がそのまま平和であるとは言えない現実も知りました。

 

 今の恵まれた私達にはその状況を想像する事すら出来ないでしょう。それを知ったところで何の役にも立たないと言われてしまえば本当にそうなんですが、戦争で起きたことを知る事は、あの時代を生きた人々を知る事に繋がります。そして自分をその時代にいると置き換えてみるのです。今の時代で言えばAR、疑似体験というところでしょうか。

そこで、このARを利用して本当に疑似体験出来ないものかと考えています(本当は待っているだけです)。かなりヘビーな内容になるでしょうが、書籍から得るよりストレートに伝わってきます。これを利用しない手はないと思うのですよ。(誰かやって)

 

 また、戦争とは別の視点から見る若者たちがいる事を知りました。僕よりはるかに若い10代20代の若者が、昭和のモノクロ写真をAIでカラー化する取り組みをやっているのです。たまげました、感服です。今のテクノロジーを用いて現代に甦らせるという発想が素晴らしい。そして正確に配色するため、当時の人に聞き取りまで行っているのです。『証言』とはこういう場でもやはり重要なのだと思い知らされました。彼らも必然的にこれから戦争と関わっていくのでしょう。

 

 こういった若者たちが存在している事がとても嬉しく思いますし、風化どころかリアルに仕上げようとしている所に現代の考え方、若者らしさが表れています。このような取り組みを行っている若者をこれからも応援していきたいです。(陰で)

 

 今回の記事を読み返してみると、去年の8月15日もほとんど同じ様なことを書いていました。戦争を知ろう、証言を聴こう、戦争は繰り返してはいけない、と当たり前の事を考え書いているので内容は必然的にそうなります。読み手としては新鮮味のない、パッとしないものに思われるかもしれませんね。

ヒロシマナガサキ原爆の日の文言が同じだったとしても、そこを突っ込むのは野暮というものでしょう。そもそも比較すべき事じゃないし、大切な事は何なのかを考えれば自ずと分かるはずです。

 

 75年という長い様で実はつい最近の様な年月は忘れるにはまだ早すぎます。人類は戦争から逃れる事は出来ないのかもしれません。しかしこの戦争がもたらした惨禍を振り返り伝える事は人類の使命でもあります。

 

今回も長々と書いてしまいました。あー疲れた。

来年もまた終戦日に思う事を書くつもりでいますがコピペしようかと思ってます。