なるがままにされよう

このGブログも6年目に入りました。気が向いたときに書きます汗

わたしとインターネットなるもの Ver.2

なるがです。

 今日、わたしとインターネットについて文章を書いたのですが、1発目の記事は人の目を気にして格好つけた、優しいきれいごとばかりの文章を書きすぎました。お詫びします。これが本当のわたしとインターネットです。 

 

「わたしとインターネット」

 インターネットなる言葉は恥ずかしい話僕にとってエ〇スの代名詞でもあります。何やらめちゃくちゃあやしい様に感じられるのですが、今この時代にエ〇スと言う言葉はある意味新鮮な響きを感じます。若者の恋愛離れが加速中と言われて久しい現代、SNS、出会い系、リアル指向のネット時代でも、実は書き物読み物の中にも人のアレに訴えるエ〇スがあることを知って欲しいと思います。

 

 僕がインターネットなる響きを聞いたのは遥か昔、今から21年前の、確か2000年頃だったと記憶しています。何を思ったか、思う存分エ〇画像を見たい!ただそれだけの理由でパソコンを購入したのですが、使い勝手が全く分からず、まさに宝の持ち腐れ状態…否、豚に真珠でした。

正直なところ今でもインターネットを使いこなせていませんが、本当にすごい技術を実に簡単に使わせてもらってます。ネットすごい。

 

 さて、当時パソコンを購入して何をするかと言えば、エ〇ゲームか、エ〇サイトのネットサーフィンしかありませんでした(今もそう)。インターネットにはたくさんのホームページが存在しており、サイトを訪れる事で今まで知らなかった情報などが実にたやすく得られる事に驚いたものです。

 その中でも僕が一番興味を持っていたものはやはり『エ〇ス』についてです。

このブログの中では流石に大っぴらに取り上げられませんが、僕はエ〇スについて知りたい事が今でもたくさんあります。インターネットには膨大な量の情報が載っていますが、インターネットを知る前、何か知りたい事があれば辞書を引くか、年老いたじいちゃんが番頭をしている書店へ行くしか方法がありませんでした。しかしネットの登場によって部屋に居ながらにして欲しい情報がすぐに手に入れられる様になりました。それがヒットした情報かどうかは置いといて。

探せば本屋にも欲しい内容のものは当然あります。しかしそれに出会う為には『相当の覚悟』と、さらに『強運』が必要になります。

この世に存在しているごまんとあるサイトの中から、自分にとって本当に価値のあるものに出会う事というのは本当にマレです。そして比較するためにそれなりの量のサイトを訪れ、ある程度知識を吸収する必要もあります。本屋通いでは時間もお金にも限界があります。(特にお金)

ですがこのインターネットの中には大量のサイトがあり、プロでない素人による面白いサイトも驚くほどたくさんあります。

そして僕にとって本当に価値のあるもの、それはノンフィクションであり、紛れもない生きた証でもある『掲示板』です。ただの掲示板は本屋には売っていません。買えるものもありますが、それは色付けされたものが多いのではないでしょうか。

とはいっても僕の求めている掲示板とは、生々しい本音が書かれている掲示板のことで、修羅場をくぐり抜けてきた人たちの本気の文章です。特殊と言えば特殊なんですが、これがインターネット上には結構たくさんあるのです。僕が求めるものは、ひっそりと存在する名もなき人が書いたエ〇スを含む文章なのです。

 

 何故人間はエ〇スに魅了されるのか、いったいどう○○するのか、どんな○○だったのか。そして28歳だった当時、僕はそれを知りどんな思いだったのか。知ることは限りなく無駄でどうでもよい事なんですが、たくさんの勇気ある本気の文章を読むことによって彼ら戦士たちの気持ちが少しは分かるのではないか、とそう思った訳です。

 

僕はある時ふと、他人の文章の中に知り合いがいるんではないか?と思いつきました。キーワードと時系列をもとに辿りながらインターネットの中を検索しておりました。

ですがそう簡単には出て来ないものですね(笑)

そんな事よりも当初の目的である最強のエ〇画像を見つけるために、当時の僕はADSLの激遅い通信環境で必死に戦っておりました。1枚の画像表示に数十秒を費やし、表示されたそれがBBaだった時の悔しさも経験しました。

そして欲しいものをやっと見つけた時の不思議な感じは今でも忘れられません。会ったこともない人なのに、やっと会えたという矛盾した感覚? 

この後欲を出し、もっと詳しく調べる為にあやしいサイトを転進していたらダイヤルQ〇という、知らないうちに激課金されてた事もありました(汗)。もう絶対に訪れることはないでしょう(笑)

 

 わたしとインターネットと言うならば、間違いなくエ〇スと気軽に思う存分巡り合わせてくれた恩人と言えるかもしれません(人?)。 いや、インターネットに関わる動機がそもそもおかしいのですがね。全く。でも僕はこれを恥ずかしげもなく言うならば、これこそが本音なのです。そして日々眠い目をこすりながらサイトを探し回ったおかげで必然と沢山の戦士たちの声も知ることが出来ましたし、ある意味僕に宿るエ〇スの執念がそう言わしめるのかもしれません。

 インターネットには多種多様な情報があり、そしてそれを自分自身で選び取る事が出来ます。テレビではとてもじゃないが放送できない事でも、自らの意志で探し、受け取りに行く事が出来ます。ただ便利さの裏に潜むリスクも十分理解する必要があります。これからもっと高度に発達したネット世界が出てくるでしょうし、情弱の僕なんかは特に気を付けなければいけないと思っています。エ〇サイトに潜むウイルスによって幾度となく苦しめられ、挙句の果てにリカバリ不能となった初代パソコンのように、多少の犠牲を伴う痛みを経験することもあるでしょう(普通はない)。

人生で得られる知識には限界があります。映像しか勝たんこの時代に、今はすたれ気味のエ〇本を読む事、活字の中にもエ〇スは宿っています。辞書の中にあるセ○○スという単語からとめどなく妄想があふれ出た中二病のあの日も、人生における素晴らしい時間なのは間違いありません。エ〇スある限り知識の吸収は続けていきたいなと思いつつ、コロナ禍の今、インターネットで検索しまくって、さらに引きこもりまっしぐらに向かいつつある今日この頃でもあります。

最後にお詫び申し上げます。

僕の場合エロスなどという文学的なものは微塵もなく、ただのインターネットを徘徊するエロおやじだった事に今気づきました。すいません。

 

わたしとインターネットなるもの

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

 インターネット文学なる言葉は恥ずかしい話ここで初めて耳にしました。何やらめちゃくちゃ敷居の高いものの様にも感じられるのですが、今この時代に文学と言う言葉はある意味新鮮な響きを感じます。活字離れと言われて久しい現代ですが、ネット時代でもやはり書き物読み物はいつでも人の心に訴えるものであって欲しいと思います。

 

 僕がインターネットなる響きを聞いたのは遥か昔、今から21年前の、確か2000年頃だったと記憶しています。は?インターネット?なにそれ?位の知識しか持ち合わせていなかったのでまったく興味がなかったのですが、何を思ったか流行りに乗っかろうという薄っぺらいノリでパソコンを購入したのでした。当時の価格で¥15万程だったと思います。バカでかいモニターのデスクトップパソコンでした。

しかし、パソコンを買ったのはいいのですが、使い勝手が全く分からず、まさに宝の持ち腐れ状態…否、豚に真珠、猫に小判状態でした。

 

正直なところ今でもインターネットの何たるかを理解していませんし、使いこなせていません。今コレを書いている事が町内の回覧板レベルでなく、世界中に発信している事が未だ信じられません(笑)本当にすごい技術を実に簡単に使わせてもらっています。

 

 さて、当時パソコンを購入して何をするかと言えば、ゲームか、ネットサーフィンしかありませんでした(今もそう)。インターネットにはたくさんのホームページが存在しており、サイトを訪れる事で今まで知らなかった情報などが実にたやすく得られる事に驚いたものです。

 その中でも僕が一番興味を持っていたものは『過去の戦争』についてです。

このブログの中でも戦争について少し取り上げていますが、僕は過去の戦争について知りたい事が今でもたくさんあります。インターネットには膨大な量の情報が載っていますが、インターネットを知る前、何か知りたい事があれば辞書を引くか紀伊国屋書店へ行くしか方法がありませんでした。しかしネットの登場によって部屋に居ながらにして欲しい情報がすぐに手に入れられる様になりました。それが正しい情報かどうかは置いといて。

探せば本屋にも欲しい内容のものは当然あります。しかしそれに出会う為にはそれ相応の時間と、さらに『運』が必要です。

この世に存在しているごまんとある文献の中から、自分にとって本当に価値のあるものに出会う事というのは本当にまれです。そして比較するためにそれなりの量の文献を読み、ある程度知識を吸収する必要もあります。本屋通いでは時間もお金にも限界があります。(特にお金)

ですがこのインターネットの中には大量の文献があり、無名の著者が書いた面白いものも驚くほどたくさんあります。

そして僕にとって本当に価値のあるもの、それはノンフィクションであり、紛れもない生きた証でもある『日記』です。ただの日記は本屋には売っていません。買えるものもありますが、それは色付けされたものが多いのではないでしょうか。

とはいっても僕の求めている日記とは従軍中に兵士が書いた日記や、戦時を生き抜いた人たちの文章です。特殊と言えば特殊なんですが、これがインターネット上には結構たくさんあるのです。僕が求めるものは、ひっそりと存在する名もなき人が書いた日記なり証言なのです。

 

 祖父が太平洋戦争で戦死しているのですが、いったいどうやって死んだのか、どんな最期だったのか。そして34歳だった当時、どんな思いだったのか。知ることは不可能なんですが、たくさんの兵士の証言や日記を読むことによって祖父の気持ちが少しは分かるのではないか、とそう思った訳です。

フィリピンのパラワン島に於て1945年3月14日戦死。終戦の5か月前です。あと少し生き延びていれば…と思わずにいられません。

僕はある時ふと、他人の日記の中に祖父がいるんではないか?と思いつきました。今は亡き祖母からの証言や時系列をもとに辿りながらインターネットの中を検索しておりました。そしてとある中隊長の日記を読む中でそれは僕の目に入ってきました。

『〇月〇日誰それが死亡』と日ごとに綴ってあるのですが、なんとあろうことか、そこに書いてあったものは祖父と同姓同名、そして戦死日、階級まで同じなのです。

まさかそんなことはあり得ない、偶然にも程がある!と思ったのですが、その日記で亡くなった場所はインドネシアボルネオ島で、祖父が亡くなったと言われているパラワン島の隣の島ではないですか。

「これは、間違いなくじいちゃんだ…」

ただ確信は持てません。じいちゃんかもしれないし、全くの赤の他人かもしれないのです。

これを見つけた時の不思議な感じは今でも忘れられません。会ったこともない人なのに、やっと会えたという矛盾した感覚? 

この後もっと詳しく調べる為に軍歴証明書を発行してもらう!とか言いながら4年放置しています(汗)たぶんもう発行することはないでしょう(笑)

 

 わたしとインターネットと言うならば、間違いなくじいちゃんと巡り合わせてくれた恩人と言えるかもしれません(人?)。 いや、全くの他人かもしれないんですがね、でも僕はこれを祖父だと思いたいのです。探し回ったおかげで必然と沢山の兵士たちの声も知ることが出来ましたし、ある意味祖父がそう導いたのかもしれません。

 

 インターネットには多種多様な情報があり、そしてそれを自分自身で選び取る事が出来ます。テレビの様に与えられるものを受け取るのではなく、自らの意志で探し、受け取りに行く事です。ただ便利さの裏に潜むリスクも十分理解する必要があります。これからもっと高度に発達したネット世界が出てくるでしょうし、情弱の僕なんかは特に気を付けなければいけないと思っています。

人生で得られる知識には限界があります。本を読む事、活字に親しむ事はこれからも時間がある限り続けていきたいなと思いつつ、コロナ禍の今、インターネットで検索しまくって引きこもりまっしぐらに向かいつつある今日この頃でもあります。

 

サビ残と利益と上司と僕

なるがです。

 

 最近また少しづつ帰宅時間が遅くなってきています。定時退社はどう考えても無理なのでどうしたものかと悩んでいるところでもあります。現にサビ残を毎日やっており、この悪い習慣を何とかしてやめなければと思うのですが、なかなかそう簡単にいく訳もなく。コロナでここ一年は暇になっているはずなのに、定時で上がったことがありません。利益を生み出す策が人件費の削減しか打つ手がないのがそうさせているのでしょうか。

上司が言う、残業はするな、人を削れ、でも結果を出せ。

残業なしで出来ないことは分かっているくせに、それを見て見ぬふりをして、時間内に終わらせられないのはアナタが出来てない証拠でしょ?と言い放つ。僕はぐぬぬ…と唇を噛み締める事しか出来ません。しかもサビ残は「自分が勝手にやった事だから知った事ではない」、と言う。確かに自分の意志でやっているのは事実です。それで文句を言う権利などないのは百も承知ですが、なんだろう、この他人事のような突き放された言われ方は。一気にやる気も萎えてきます。一緒に協力する気もなければ改善案もない。そもそも何も考える気がないのだな、と言わざるを得ない。

数字さえ出ればOK。確かにこれはサラリーマンの宿命とも言えるでしょう。結果を出してナンボの世界、利益が1円でも出ればすべてOKなのですよ。プロセスなんかはどうでもいい。きれいごとには興味がないのです。

片やもう一人の上司は、そんな事してたらダメだ、何としても改善しなければならない、自分のためにも、家族のためにも!と。おおっ!何という素敵なことを言ってくれるんだ!と一気に気持ちが軽くなった気がしましたが、何か違うんですよ。僕が求めていることはそういう事じゃない。うまく説明出来ませんが、改善案が教科書から引っ張り出してきた様な、いまいち的を得てない様なものが多くてですね…親身になってくれるのは有難いんですが、なんなんですかね。

僕が今求めることは、3か月、いや1か月でいい、仕事を代わってくれ。と言いたい(笑)どうです?無茶で馬鹿なお願いでしょう?しかしそうする事でお互いの求めるものが少しでも理解でき、乖離もなくなるはず。現実には無理なんですがね。机の上から指示だけ出して、現場で働いた事のない人間には理解できないでしょう。

例えば、卵を100個割るとして、全部割るのに何分かかりますか?という問いがあったとします。1個あたり3秒として300秒、つまり5分あれば全部割れるというのが分かります。しかしこう考えてしまうのが現場を知らないという事なんですね。卵を100個割るとすれば、まず衛生面も考慮しながら作業場所を確保し、100個入れられる容器を準備し、冷蔵庫から出して、パックを開けて、ようやく割り始め、1つずつ別の容器に割り入れ状態を確認しながら、殻が入らないように、そして途中に別の作業が割り込まないうちに素早く終わらせます。割っただけでは使えないのでそれをシャカシャカ溶きほぐす作業も必要です。それが終わったら作業場所の片づけと消毒、使用器具の洗浄…は後でもいいですがそこまでやって初めて『卵割り100個完了」となる訳です。

これで普通にやっても5分で終わらないのはど素人でも分かりますよね。だけど、そんなもん5分でおわるだろ!と簡単に言ってしまうんですよ。これでは話が嚙み合わないのも当然です。分からないんだからこれは仕方の無い事です。ですが上司が求めるのは、その作業を5分以内に完璧な状態で仕上げろと言うものです。ではどうやって100個の卵を5分以内に割りほぐすのか?僕でも5分以内に準備片づけ込みで終わらせるのは不可能でしょう。…ここで上司が言いました。『すでに溶いてある卵=液卵』を使えと。確かにこれなら封を切るだけで済みます。こうしてほかの作業も時間短縮を図れば残業もなくなるんじゃないの?と。さすが上司だ、と言いたいところですが、高いんですよ液卵。2倍はします。これを高いと取るか安いと取るか、考え方なんでしょうけど、この理論で他の作業にも応用するとなると相当コストアップは免れません。経費を削れという割にこの案は矛盾してない?そして残業になる場所に人を投入して早く終わらせたらいい、と。人を削れと仰ったり、人を入れろと仰ったり、もう訳ワカメですよ。しまいには決めるのはアナタだ、って、それはそうなんだけどなんじゃそりゃ。掛かった経費の責任は取るから一回やってみろとは言ってくれないんですね。

休憩も取れていないし、朝〇時から〇時までぶっ通しですよ。ほんとブラックです。でも上からくる指示は、休憩はしっかり取るように!取れないなら取れるシステムを作ること!って。言う方は簡単でいいよなぁ。戦時中の大本営参謀達に匹敵するんじゃないかと。

まぁこんな感じでも深刻に考えてるようで考えてないのが僕という人間なので、いつも通り適当にやりますが、サビ残だけはもうこの辺で止めにしたいと思います。タダ働きで生み出した利益なぞ糞以下だと改めて思いましたので。

 

 

 

私のプレイリスト

先々週のお題 「私のプレイリスト」

 

なるがです。

 

 最近の傾向として、はてブロから出されているお題テーマ「今週のお題」をアテにして書く事が多くなっております。なんと言っても自分でテーマを生み出さなくてイイ!与えられた事について書けばいいのだから、これほど楽な事はありません。よく言う『生みの苦しみ』から解放された状態です。

テーマを決める、つまり『ネタ』ですが、平々凡々な毎日を送っている僕がそうたやすくネタ等出てくる訳がないのです。ということで今回も「今週のお題」のお世話になるのですが、少し前のお題エントリーに間に合わなかったのを思い出したので、今こうして「先々週のお題」などというエントリーしてるんだかしてないんだか分からない、お前はいったい何がしたいのかといった暴挙に出ております。ただこうまでして書きたい! 伝えたい! という想いはそんなにありません。(ないんかい)

あまり長々と書いてもアレなのでそろそろ本番に入りたいと思います。

 

「プレイリスト」とは音楽や動画、自撮り動画等を再生する順番をリスト化したもの、ですが、僕は音楽リスト作りを長いこと放置しています。いえ、する必要がないのです。『シャッフル』という夢のような機能のおかげでリストを作らなくても良くなったからです。(めんどくさいだけ) 音楽を聴くという環境は、僕がまだ中高生だった30数年前とは比べ物にならないくらい進化発展しました。

 当時はまだカセットテープが主流で、我が家にコンパクトディスクなるものが持ち込まれるのはまだまだ先、人気の歌謡曲を繰り返し聞きたいとき等は録音です。ラジカセをテレビの前に密着させ、歌が始まると同時に録音ボタンを押す、といった超原始的な手法を取っていました。当然家族の声や生活音も紛れて入ってきますが、これはこれで楽しかったです。

やがて我が家にもデジタル革命が起きCDが取り入れられました。(革命の割に大したことない)当時はオーディオ機器にお金をかける人が多く、デカいスピーカーや何段にも積み上げられたアンプ類等がステイタスだったような記憶があります。我が家にはそんな高級品を買うお金はなかったのですが、親に何とか頼み込んでCDラジカセを買って貰いました。その時CDからカセットテープへ録音できる事を知り、その作業の中で初めて『プレイリスト』なる概念ができたように思います。

 CDからカセットテープに録音する、この行為はたいそう僕を興奮させ悩ませました。誰に聞かせるでもない、持ち運べるでもない、単なる自慰行為にすぎません。それでも起承転結を意識した選曲する楽しさ、オープニングの掴み曲、体を揺らすノリのいいロックな曲、少し休憩タイムここいらでバラードでも一曲、そして壮大なラストを飾るにふさわしい曲……と考えるだけでもワクワクしていました。気分は完全に人気プロデューサーです。まぁ独りでしこしこしてるだけのマスターベーションでしかないんですがね。

何にも拘束されない、自由で縛りのないこの作業がとても楽しかったです。そしてラジカセを抱え、テープを持って野外へ出かけ、さあどうだ!俺のスペシャル選曲を聴けと言わんばかりに、誰もいない河川敷などで大音量で流したりしておりました。ここでアツく語りだしても、「へぇ~そうなんだ。で?」と、ただの変態野郎という事になりかねないのでやめておきます。(笑)

 

 ここで、「私のプレイリスト」と言いながら、ここに至ってまだリストを挙げていない事に気が付きました。いえ、決して焦らしているわけではないのです。前戯がなげーんだよ!と突っ込まれそうですが、意外と落とすタイミングを逃して不発か、早打ちガンマン並みに一気にまとめてしまうパターンですねこれは。そうならないように頑張ります。

 という事でやっと私のプレイリストです。一番記憶に残っているものを挙げるとすれば、間違いなく中3の時に聴いたアルバム、『ワム!ファイナル』の中の一曲『ラストクリスマス』です。…ん?それだけ?リストじゃないじゃん?そうです、これが私のプレイリスト、すなわちALLラストクリトマスです。当時中3のイカ臭いガキが色気を出して洋楽なぞ聴きはじめたのですが、この曲にはとにかく度肝を抜かれました。80年代を代表する曲ですが約40年前の曲にもかかわらず、未だ現役の第一線で活躍する化け物みたいな超名曲です。こうなることをすでに予見していた当時、僕には先見の明があったんだと自負しております。(笑) 

シンセサイザーと打ち込みドラムの機械的な音色、あのイントロを聴くだけで軽くイってしまいます。それくらい好きだったので何回も聴きたくなり、いっそカセット1本丸ごと詰め込んでやろう!という裏技に至ったのであります。

今でこそリピート機能など当たり前のようにあり、目隠ししてても操作出来ますが、当時はリピートしようと思ったら『テープ巻戻し』という超めんどくさい作業が必要でした。そして中出…もとい『頭出し』機能も付いてませんでしたので中々ドンピシャッとはいかず大変イライラしたものでした。A面が終わったらカセットを裏返しに入れ直さなくてもB面が始まる『オートリバース』(死語)でさえ目の当たりにした時それはそれは目ン玉飛び出るくらい驚いたものでした。(大げさ)

 実は今、リアルタイムでもALLラストクリリスを聴いています。心は一瞬にして中3に戻った。どこで聴いているのか?そうです、こんなにもこれを聴く環境として最適な場所はないであろうその場所とは、車の中です。ここなら誰にも邪魔されずに思う存分ワム!ラストクリスマスが聴けるのだ。何なら大声で歌う事だってあんなことだって可能です。

車内で誰にも邪魔されないからといっても、この季節にクーラーをかけて聴くラストクリスマスもオツなものです。シャンシャン♪シャンシャン♪ とクリスマスの鈴の音が響く車内からチラと外を覗いてみれば、下着姿で汗を拭くオッサンや、下着姿で自転車を扱ぐおっさんが目に入る。そしてもう真夏なんじゃないかと思える位に肌の露出の多いお姉さん達。いいですねぇ。クリスマスとは程遠いこの季節感のギャップもまた趣きがあっていいものです。(?)

歌っていると、たまに街ゆく人々やドライバーから見られている事もあり、恥ずかしい時もありますが一期一会、もう二度と会う事はないのだからと気にしません。窓や鏡に映った自分を見た時のほうがよっぽど恥ずかしいです。(本来の一期一会の意味は人との出会い系を大切にする、という意味ですのでこれは使い方が間違ってます)

 

 しかしとんでもないモノを見つけてしまいました。これも過去のプレイリストになるのですが、何とコレは社会人2年生くらいの時に先輩と二人で楽器演奏・歌唱を録音したプレイリストなのです。

使用楽器は、エレキギター・エレクトリックベース・アコースティックギター・ドラム・ピアノ・ハモンドオルガンハープシコード・ストリングス・コンガ等……多岐にわたっておりました。録音方法はラジカセ。ん?ラジカセ? 

ラジカセにカセットテープをセットして、3,2,1、! で演奏・録音開始! そして次に、録れたモノをバックでズンズン流しながらさらに演奏開始、それをもう一台のラジカセが録音する! という江戸ナントカもびっくりの荒技の数々をやっておりました。機材も本物なんかある訳ないので、カシオのやっすいキーボードを購入して、それに付いている音源を駆使しながら色々試行錯誤です。ドラムも、んなモンあるはずもなく、鍵盤に割り当てられた音色を指でドンドン♪、プシップシッ♪ と叩いて録音(笑)

しかし完成した曲を聴くとこれがまた結構いい出来なんですよ。音が重なって曲になっているとすごい興奮します。そして1曲としてまともなものは無く(笑)、途中から半分ふざけモード、良く言えばアドリブになっているので聴く度に大笑いできます。まさにこれこそが世界でこの一枚しか存在しない、最強のプレイリストなのであります。

f:id:narugapapa:20210613173233j:image

 しかしです!最悪なことが判明しました。この写真でお分かりのように、ご丁寧に『MD』へとダビング(死語)してあります。MDコンポは当の昔に捨てています。あらら…そして元のカセット音源の存在は分かりません。しかも、MD本体のインデックスを見ると、なんとあろうことか『山崎まさよし』と書いてある!!!

何故、なにゆえに僕はまさよしを上書きしてしまったんだろう。激しく後悔している。そこまでして山崎まさよしが聴きたかったんだろう、そうとしか考えられない。見つけた喜びも束の間、世界でたった一つの最強プレイリストはすでに消滅していたのだ。

だけどこのリストを見るたびに当時の懐かしい思い出が蘇ります。音源は聴けなくても想像で笑えます。『スポットライト・キッド』(笑)とかマニアックすぎですね。

やっぱり僕にとって最高のプレイリストです。たぶん探せば何本か音源テープは出てくるはずなので探してみようと思います。

今回は久々に長文になってしまいました。だらだらとどうでもよい事ばかりになってしまったのはご容赦ください。しかしプレイリストと聞いてやらしい想像をしてしまうのは男の、おっさんの性なんかなぁ。無意識のうちに文面に出ていなければ良いのですが……。

 

 

「そうめん」とはポテンシャルを秘めた食べ物だ

今週のお題「そうめん」

 

なるがです。

 

 「そうめん」を漢字で書くと「素麺」と書きます。そんなこと誰でも知っとるわ!と突っ込まれそうですが念のために書いておきます。

 そうめんは夏になると必ず食卓に上がってくる献立のひとつですよね。僕もそうめんは大好きです! 冷たくてひんやりとして、出しが絡んだ麺がつるつると、一度食べだすと箸が止まらなくなります。…否、正直に言います……僕はどちらかといえば脂ギトギトのコッテリラーメン等が大好物なので、そうめんはアッサリしすぎで何か物足りないんですよ。なので僕はいつも何か油脂を加えて食べてしまいます。天ぷらやかき揚げがベストなんですが、揚げ玉やごま油なんか加えて楽しんでます。この歳になると油脂系はやめなさいと奥さんから言われてるんですが、やめられまへんな。

 

 麵自体が小麦粉、水、塩、とシンプルな材料なので基本的に何を合わせても合います。ですがやはりアジア発祥の食べ物だからでしょうか、なんにでも合うと書きましたが、バターやケチャップ、デミグラスソース等の所謂洋モノ系には拒絶反応を示します。調理法を工夫すれば合わないこともないと思いますが、そもそも「そうめん」という完成された献立を分解し、敢えて冒険する必要性などは無いと思います。

 

しかし僕もそうですが、この型にはまった「素麺のあるべき姿」をぶち壊したくなるのが人間の性というものでしょう。アジア枠から飛び出して行きついた場所はイタリア。そうです、イタリアといえばトリコロールの国旗にも表れているように、バジル・モッツァレラチーズ・トマトですよね。(本当は違います)

そうめんのトッピングとしても十分美味しく、意外とつゆにも合うのですよ。専門的な話をするとグルタミン酸イノシン酸ガー…ということなんですかね。しかしそうではなくて、パスタの代わりとしてもそうめんはイケるクチなんですよ。オリーブオイルとにんにく、赤唐辛子、トマト、塩、だけでもめちゃくちゃ合います! 

カッペリーニ」というパスタ(『髪の毛』、田舎者という意味ではない)がありますが太さ形ともに素麺と似てますよね。冷製で食べるのが美味しいのですが、冷やしすぎない!のがポイントだと僕は思ってます。ミョウガ、水ナスなんか合わせたら最高に美味しい。

このように素麺のポテンシャルには驚くべきものがあります。(大げさ)

 

 でもやっぱり「そうめん」で真っ先に思いつくのは「そうめんと茄子の入った味噌汁」です。子供のころ食卓によく出ていたからなのか、はたまたこの組み合わせの味噌汁が斬新だったからなのか。何故か不思議と記憶に残っていて、たまに無性にコレが食べたくなる時があります。おふくろの味なのかな。

クタクタになって歯ごたえも何もないそうめんと、早いうちからぶち込まれたであろう、色が完全にぶっ飛んでバラバラに崩れた茄子……なのにだ、味噌汁との間に醸し出される見事なまでのマリアージュに、僕は完全に打ちのめされるのである。(だから大げさ) 何故そうめんと茄子なのか?この際意味などどうでもいいです。実際にこの組み合わせはとてもポピュラーであることも分かっています。ただ実家みたいに「鬼煮込み」ではない事は確かかと。

 

 奥さんが今日の晩御飯何にする?と聞いてきたので迷わず「そうめん」と言ったら、そうめんはお昼に食べるものだ、と返されたんですが理由が謎です。ですが、肉そぼろとか韓国風そうめんにしたらどう?と言ったら喜んで買い物に出かけていきました。

と言う事で今日はそうめんになりそうですが、「そうめん?ん?そうめん?」とブツブツ言いながら出かけて行きましたので、どうなるか分かりません。

 

やはり雨の日はブルーになるのか

今週のお題「雨の日の過ごし方」

 

なるがです。

 前回に引き続き今回も果敢に『今週のお題』に挑戦しようと思います。(本当はネタが無いだけ)

 『雨』、というワードについて考えるとき、私たちのイメージはいつも暗いものになりがちです。雨そのものが決して悪いという訳ではないのですが、降り過ぎると怖いものになりますし、雨ひとつ取っても色んな表情を見せます。しかし、つまるところ晴れの明るいイメージが強過ぎる為、雨が暗いものになっているのかもしれませんね。

では『雨の日』ではどうでしょう?これもやっぱりイメージは暗いです。みんな家に籠って外に出かけないでしょうし、晴れが動なら雨降りは当然の様に静になってしまいますよね。

しかし雨の日でもシチュエーションによっては大変マッチする情景に早変わりします。

彼女との待ち合わせはいつも雨なんだけど、水のトンネルくぐるみたいで幸せになる、という人も居れば、土砂降りの雨の中を傘も差さずガムシャラに走る人、行くあてもなく傷付いた体でフラフラと彷徨う人も居る様に、雨の日でも出かける人は出かけてます。

イメージするだけでも何かロマンチックだったり、雨の日は不思議な哀愁が漂いますよね。

これがカンカンに晴れたギラギラの太陽の下だとしたらどうでしょう? 汗がダラダラと雨の様に滴り落ちる顔で彼女の前に姿をさらけ出す事になるでしょうし、炎天下での全力疾走は運動部の部活動としか見られず、フラフラと彷徨うその姿、まさしくアナタそりゃ熱中症でしょ!というものです。

ギラギラの太陽でなく小春日和だとしても、ただの普通の日であり、単なるデート日であったり、おじいちゃんの散歩のイメージでインパクトに欠けますよね。

そう考えると雨とは人間のおセンチ(死語)な部分をくすぐり、刺激するのでしょう。

 

 ではそんな雨の日にはどう過ごすのか?僕は雨の日にはコレをしようとかそういうのは無いのですが、『雨に出会ったとき』の感じ方、過ごし方が好きです。

例えば車を運転中の雨。急に降り出した大粒の雨とボディを叩き付ける雨音。そして箱に守られているあの何とも言えない無敵感。

傘を忘れて雨の中を走るしかないチャリンコ、途中で諦めにも似た感情に身を委ねてしまい、何故かスピードを落としている事。

時間がたっぷりある時の、ちょっと雨やどりして缶コーヒーでも飲むか、という穏やかな時間の流れ。(スタバ入店とかでは無い)

木々の葉や草花の湿った匂い、葉に当たっては揺れ、流れ落ちる水滴、そこに暮らす小さな虫たちの行動…。

 

雨の日に外に出ると、何かしらナルシストモードに入れる訳ですよ。言ってみればその場面に自分が酔っているのです(笑)

ですがこういう感情は僕はとても大事だと思うのです。家の中ではこの様な感情はまず抱く事はありません。

 雨の匂いとか良く聞きますが、湿った空気と土の香りがそうなんでしょうか。『しとしと』と良く表現される雨降りの時に、その雨の匂いとやらを感じます。流石に土砂降りのときに雨の匂いとかはぶっ飛んでしまって無いですが。

 

 この様に、雨の日に外に出る事は決してネガティブな事ばかりでもなく、色んなたくさんの知らなかった発見や気付きがあります。

そして雨上がりの空を、空気を、匂いを、景色の移り変わりを肌で感じ、太陽のアーチ(虹)見れるかな?と寒いワードがすんなりと言えるくらいになっていればしめたものです。もう雨とは友達も同然です。

 今流行りのキャンプとかアウトドアのレジャーなんか最高ですよね。まさしく雨と友達になれる良い機会です。今は残念ながらあまり出かけられる状況にありませんが、早く自然の中へ飛び込んで思いっきり遊びたいですね。

少年少女よ、外に出て雨と過ごそう。

 

そう言えば今日はとても良く晴れたいい天気でしたが、一日中家でテレビ見てたらいつの間にか夕方になってました。

何もしてない…。

 

出ないなら出るまで待とう~やるやる詐欺

今週のお題「やる気が出ない」

 

なるがです。

 

 最後にブログ更新をしてから早1か月半です。この月日が何を表しているのかと言えば『やる気の無さ』に他ありません。いえ、やる気はあるんですが体がいう事を聞いてくれないのです。

「やる気が出ない」とは、やる気はあるのにも関わらず、体がいう事を聞いてくれない状態なんですね。(2回言ってる)

 

そしてこの時期になると何故か無気力になってしまう人達がわんさか出てくるという。特に言われているのがGW明けに続出するという「五月病」です。

「さつきびょう」ではなく「ごがつびょう」と読みます。間違っても「さつき命」という意味ではありませんので注意が必要です。これは見方によってはただの惰性に捉えられたりする事もあります。

 

 新入生や新入社員が4月の不安と緊張の毎日から、GW連休によっていったん解放され気が抜けてしまい、何となく無気力になってしまう…。今さら説明など必要ない、誰しも一度は通ってきた道だと思っております。

 

 この五月病というワードは1968年には流行語にもなったそうで、2021年の現代でもそうですが毎年話題に上がります。人間のメンタルというものはそんなに変わらないものなんですね。

しかし時代背景を見ると全く違います。たくさんの事例が挙げられますが、例えば入ってくる情報量が当時とは格段に違います。ネットのない時代でも同じようにさつきに入れ込む人たちがいたという事は、時代背景は関係ないという事なんでしょうか。その辺は専門家の方々が詳しく教えてくれると思いますので勝手に調べたらいいです(言い方)

 

 この五月病も甘く見ているとうつ病を発症したりするので慎重に対処する事が大切です。現在の認識では5月に限った事ではなく、夏休み明けや大きく環境が変わった時などに症状が現れると言われています。

それがまさに今現在のコロナ禍に当てはまるでしょう。…いえ、この状況はそもそも5月病ではありません。それ以前から続いているのですから。

大学に入学したものの全然登校出来ていない1年生も大勢いますし、新社会人たちも仕事の基礎もそこそこに、4月のスタートダッシュをさせて貰えない事が殆どなんじゃないでしょうか。

そして外出自粛に時短要請、休業要請。行きたいところにも行けず、稼げるときに稼がせてもらえない。こんなにもどかしい事はありません。これではやる気が出なくなるのも当然です。

 

 しかしそこで悩んでいても、何かのせいにしても始まりません。環境に適応出来ない人が比較的この症状に悩まされるようです。真面目に考える事は重要な作業の一つですが、それにとらわれ過ぎてもいけないと思います。

聞くところによれば学校に一度も行っていない大学生も、オンライン授業がラクでいい!交通費もかからないし雨の日も外に出なくていいし最高!との意見もあります。

テレワークで職場のストレスから解放された、との声もありますし、環境にうまく乗っかったんだなぁと。すべては捉え方次第、そして利用できる事はしてしまおう。

 

 やる気のせいにしてしまうのは簡単ですが、少しでも動き出してみれば何かが動くでしょう。今僕が1か月半ぶりに重い腰を上げて書き始めましたが、どうでしょう、流れに乗ってきてなんともスラスラと文章を書いているではありませんか(実はそうでもない)

でも書き始めるまでに結構時間かかっているんです。さぁ書くぞ~と思いながら人のブログを読み始めたり、テレビに見入ってしまったり、ツイッターさわったり……早く書けよ!(笑)  うちの奥さんなんかコロナ禍で始めたオンラインゲームにハマってしまって、やる気出ないどころかやる気マックスで最悪です。

毎日毎日ゲームしてるのでついに僕も堪忍袋の緒が切れて、

「自分いつまでゲームしてるん⁈⁈これでいいと思ってるん⁈〇✕△◇・・・!!」と長々と説教してしまいました。(メールで)

 

 でもいつの間にか友達いっぱい作って毎日大笑いしながらやってます。これはこれでいいのかな。僕には真似出来ないコミュニケーション能力です。笑う事はストレスの発散にも繋がりますし、本当に楽しそうなので羨ましくもなります。

ただちょっとやり過ぎは良くありません。「静かにしてくれますかー?」と中学生の娘が直接苦情を言いつけてるのをよく見ます(強くなったな)  僕と同盟の様な結束感も生まれたのでこれはこれで僕にとって好都合だなと。アンチ妻を餌に娘とコミュニケーションを取りまくるのだ。普通は父親を避ける年頃ですから、今のうち(笑)

 

 僕は毎日朝5時に出て21時ごろ帰る生活なので家では寝る事がメインになっています。こんな毎日じゃ何もやる気が出な~い!出るはずありません。「おうち時間」が増えて色々な事にトライする人も増えていますが、僕にはそんな時間はほぼありません。

ですが作り出す事は出来ます。少しでもその時間を作るためにどう考えて動くか、これだけでも相当な動機付けになります。

不平不満は山ほどありますが、なるべくそれに囚われないように心がけています。満たされてしまうとアタマがパンクして動けなくなるので、気になる事は早めに改善・処理したいところです。やる気リソースを常に置いておくイメージです。

 

 やる気が出ない、結構じゃないですか。そんなに悩まなくても何とかなります。夏休みの宿題だってそうです。8月31日のあのスパートは一体何なん⁈ ていう位の追い込みを見せつけます、よね?(僕だけ?) 

やる気なんて勝手に出てくるんですよ。必要に迫られれば人間はできるのです。だからやる気が出なければそれまでダラダラしてたっていいんです。やるやると言いながら、しなくてもいい。更新頻度をあげたいと言いながら1か月半放置でもいいんです。

ただ優先順位は考えなくてはなりません。放置して人に迷惑が掛かってしまう事などは早く片付けるべきです。考え方のベースとしては、『利己でなく利他の心』を持って事にあたる。これでほとんどの事は上手くいきます。(たぶん)

徳川家康のようにゆったりと、しかしどっしりと構えて、やる時はしっかりやって結果を出す。そのようにありたいと思っています。